崎茨坪伝道所機関紙「コイノニア」No.88より

岡崎茨坪伝道所、秋の研修会特集

2007年度の茨坪伝道所の秋の研修会(11月18日~19日)は、下記のテーマで桑谷山荘を会場に、二泊二日で行われました。最近、世界的にも日本でも、セクシュアル・マイノリティーの人権が問題とされてきました。そして、キリスト教会でもそのことが認識され始めました。そのことを学ぶために、わたしたちはその研修会を企画したわけです。研修会を通して茨坪の仲間からは、異口同音に、そういうことだったのか、知らなかった、目からうろこが落ちた!という感想が出されました。

研修会は二日にわたったもので、全部を載せると膨大になります。そこで本特集では、講師を引き受けてくださった川本恵子牧師の基調講演とお二人の感想文だけを載せることにします。皆様とともに、この情報を共有したいと思います。

下記は、研修会の呼びかけ文です。

セクシュアル・マイノリティーとは?
ともに考えましょう!

セクシュアル・マイノリティ(性的少数者)とは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランス・ジェンダー(性同一性障害)などの人々を総称する言葉です。社会には3~10パーセント存在します。しかし現在、まるで日常生活の中に存在しないかのように無視されています。それどころか、嘲笑、侮蔑の対象とされ、特別な人々の話とされてしまっています。この研修会を通して学びを深め、その命に触れ、一般的理解を今一度考え直すことができたらと思います。セクシュアル・マイノリティとは命そのものなのです。

 

今回は、川本恵子牧師(日本キリスト教団波田教会)が講師を引き受けてくださいました。多くの方々に問題の本質を知っていただくために、集会を広く皆様に呼びかけることにしました。ご案内いたします。


基調講演  川本恵子牧師

セクシュアル・マイノリティーとは?
神の豊かな創造であるセクシュアル・マイノリティー

最後の人権、セクシュアル・マイノリティーが少しずつ認められてきた!

このような機会を与えられて、大変感謝しております。この夏に、森山さんから性同一性障害についてお話いただきたい旨のファックスをいただきました。わたしは「性同一性障害についてはあまり分かりませんが、同性愛を中心とするセクシュアル・マイノリティー全般についてはお話できる」とお返事しました。今日は、セクシュアル・マイノリティとはどういうことか、ということについてお話したいと思います。

性に関する人権を、「最後の人権」と表現した方がいます。どうでしょうか、日常的に性を自覚している人はいるでしょうか。おそらく、多くの人々は、性=タブーとして理解し、どうしても嘲笑、笑いとして扱ってしまうことが多いかもしれません。案内のチラシにも載せさせていただいたのですが、性は命そのものと言うことができます。とくに女性はそのことに自覚的であるといえるでしょう。セクシュアル・マイノリティー以外の人は、日常の会話で、私の妻が、私の夫が・・・。悩みにせよ、悲しみにせよ喜びにせよ・・・大切な関係を作っている相手、そこでは性をタブー視していないということができます。

しかし、同性愛者の女性の場合、私の「パートナー」がこうこうこうでと言ったときに、夫や彼がパートナーと理解されてしまいます。話の大前提となることが抑えられていないというのが現状です。一般の話の中で、パートナーと言えば、相手が仕事仲間、相棒とかと理解されてしまいます。そのパートナーが恋愛を含んだ大切な関係であることが伝わらないんですね。ほとんどの場合、友だちとかと理解されてしまいますし、当事者も友人関係を隠れ蓑として生きざるを得ない現実があります。

もう一つの例で言えば、みな自分の好きな服を着て外出できます。社会の常識と言う枠組みの中で強制されている現実が、セクシュアル・マイノリティーにはあるわけです。生まれついての性と服装や振る舞いが一致していなければならないという強制があります。また多くの人は、体の性と違和感なく生きている。体の性と自認する性、たとえば男か女か、それが違うという人の存在を多数者に合わせて生きるようにという力が働いている、それによって命の基本である「体と心のバランス」が取れなくなって生きづらさを覚えている。少しお話しただけでもこのようなことがあります。

先ほど、性は最後の人権と言われていると申しましたが、まず、人権は体の先から始まったと言われています。先ず肢体のこと、そして精神へと中に進んできました。最近では内臓まで人権として扱われるようになりました。そして、性に関することに到達した、ということです。生活の中で、人生の中で、大切なことが、しかし触れられることのなかった事柄、プライベートなこととして覆い隠されていた「性」です。プライベート、個人の自由なことであって、社会的なこととして扱われることがなく人権が見えにくくなっていた、それが表に出ることができるようになった、ということです。しかし、これは先ほどもいいましたように、異性愛者の方々は、自分の妻のことや、夫のことを話すことが容認されているわけです。セクシュアル・マイノリティはその自由がないのです。

先ず、70年代から女性たちが、私が誰でもない私のものだ、との声を上げ始めましたね。それまでは、女性の命は誰かに所有され、管理されることによって保たれていた。それに疑問を感じて、自分の性は自分のもの、自分の性を自分で選んで決める、自分の性の主人公になることを主張していった。こんななんでもないことが、他者から強要され、強制されてきたのか、そういう主張をしなければならない時代があったのですね。それを強要する、強制することは当たり前、さらにそれは良いことであるという価値観から自由になり、女性たちが獲得した「わたしがわたしらしく生きること」それが進むに連れて、他の生、セクシュアル・マイノリティーの人たちが声をあげられるようになってきたのです。

現在は、10年前よりもセクシュアル・マイノリティーが自分を隠すことなく公言するようになって来ました。たとえばこの研修会も、そうだと思います。こういう集会が開かれるようになってきました。どの時代にも、どこにも、セクシュアル・マイノリティーはいたのですけれども、それを表現することが出来るようになってきたのですね。

性に関する用語の解説

さて、森山さんとのやり取りで、セクシュアル・マイノリティーの言葉にカタカナの言葉が多くて戸惑う、という趣旨のメールをいただきました。そこで、その用語集を作りましたので持ってきました(資料配布)。それを説明しながら話を進めていきたいと思います。あまり多くのことをいっぺんにお話しをすると(笑い)大変ですので、最低限必要な言葉を選びました。

やはり、カタカナが多いわけです(笑い)。たとえば日本語では性という言葉しかないのですけれど、それでは言い表せないことがあるのです。それが一つしかないと思われている、そこで英語を用いたのですね。そこから日本語に訳してきたので、カタカナが多くなってしまうのです。神学校に行っているときに、米国合同キリスト教会United Church of Christ、そこのコアリションという会議に行きました。米国合同キリスト教会のセクシュアル・マイノリティーの集まりだったのですが、30周年の会議でした。今から4年ほど前です。そのときに、レズビアンのおばあちゃんに会いました。その方から、「レズビアンというのは日本語でなんていうの?」と聞かれました。わたしは「女性同性愛者」と答えたのですが、それは日本語のオリジナルではないわけですね。そういう表現が日本語にはないことを残念に思ったことを思い出します。

始めて目にし耳にする言葉が多いと思います。新しい言葉を知ると言うことは、自分自身が今まで使ったことがない言葉がそのあり方を表現する出来事に出会うことですから、是非お聞き下さい。

性のあり方が表現されている内容には、少なくとも三つあります。セックスジェンダーセクシュアリティーです。

セックスは生物学的性です。性別というのは、出産後大体、外性器によって判断されるものなのですね。子どもが生まれたときに男か女かを聞くわけですが、外性器で判断します。染色体や内性器やホルモンの分泌の確認がされないで、外性器だけで誤った判断がされることがあります。

ジェンダー、これはもう有名になっていますが、社会的・文化的性。社会の中で自明とされている男らしさ、女らしさが実は地域や民族、時代によって異なるということです。今までは、性別とジェンダーとは同じものだと信じられてきましたが、それは社会的に刷り込まれる、教え込まれるのであって、性別とは切り離して考えられるようになりました。

もう一つは、セクシュアリティーです。性に関する現象の全般を意味する場合と、性的欲望や性自認、自分が男か女かなど性に関する心理的側面を言います。政治学や社会学の分野では、前者の意味で使われることが多いですね。性暴力の問題や避妊・堕胎、婚姻制度、性意識の歴史的変貌などさまざまなテーマが含まれます。セクシュアル・マイノリティーの間では、後者の意味で使われることが多いです。この場合、セクシュアル・オリエンテーション、ジェンダー・アイデンティティーなどを指します。今回の研修会では後者の意味で使用します。

セクシュアル・オリエンテーションは、性的指向。性的な興味が向く方向のことを言います。コーヒーが好きだとかいう「嗜好」とは違うのです。性的「指向」と言いますと、嗜好の意味で理解してしまうことが多いのですね。でもそれは、趣味でも嗜好でもないのです。向く方向(オリエンテーション)をあらわしているんです。いろいろの性嗜好は昔からあったのだ、いろんな趣味の人がいたんだという話しをよく聞きます。しかしそれは、この社会は異性愛者だけしかいませんよという前提の下にある趣味であって、異性ではなく同性に向く指向もあるのだ、ということがぜんぜん理解されていないところでの趣味であって、また別の話なんです。

ジェンダー・ロール。これは今では有名になっていますが、社会的・文化的性です。性役割ということで理解してらっしゃる人がおられると思います。現在では、それはずいぶん緩やかに解体されてきているのではないかと思います。

セクシュアル・マイノリティーは、大雑把に言えば、異性愛者ではない人と言うことができると思います。

次は、同性愛者。性的指向が同性に向く状態または向く人。ホモセクシュアルといいますが、この言葉は本来医学用語だったんですね。1868年ハンガリーの医師のカール・ベンケルが考案した言葉と言われています。彼はプロシアの法律、ソドミン法というのがありまして、男性間の性交渉を禁止条項を批判する目的でこの言葉を使いました。彼は医師でありましたが、同性愛は病気であると考えて異性愛に治すことの重要性を主張したんです。だから同性愛者はソドミン法で罰せられていたのですが、それは病気なのだから、禁止するものではないという考え方だったのです。

 現在では、1995年に日本精神医学会が同性愛者を障害とみなさないと決定しました。今から10年少し前ですね。アメリカでこの決定がなされたのは1973年ですから、20年後に日本でも病気ではないということになったわけです。それまでは、同性愛者は病院に連れて行かれて、または本人が病院に行って治療を受けることが頻繁になされてきました。

これに関係して、同性愛者の略語であるホモという言葉は、一般的には蔑称なのです。テレビや日常会話で使われているこの言葉は、同性愛者を侮蔑する言葉として使われています。使われている状況は、「ホモは気味地悪い」というような場合がほとんどです。多くのセクシュアルマイノリティーは、この言葉を不快に感じています。同じような言葉としてオカマという言葉がありますが、いわゆる男らしくない人をいじめるために使われます。男性同性愛者は女性化した男だ、という考え方があるからだと思います。女性化した男という発想には、恋愛や性的交渉は男女のみに成立するから同性愛者にも男役や女役があるに違いない、異性愛のカップルが一般的に育んでいる関係を想像してしまい、それ以外の関係が認められない、受け入れられないという思想があるからだと思います。それは、強制異性愛社会の思考ということができると思います。

ちょっと余談になるのですが、この強制異性愛社会と天皇制とはとても深く結びついていると考えるのです。結婚して子どもを産んで、子孫を残していくことが当たり前とされています。それ以外はあってはならないこととされています。同性愛者あったりとか、「独身」であることはあるはずがないと信じられている世界があるでしょう。という意味で、日本は天皇制の影響を自覚的にも無自覚的にも受けていて、異性愛者以外に対する差別が生まれているのではないか。そんな風に、最近考えています。

日本における同性愛者の推定人口は、270万人くらいと言われています。女性同性愛者が166万人くらい、男性同性愛者が108万人。全人口の3.9%に当たります。これは、2月の日経流通新聞から取り上げた数字です。経済という視点から取り上げられたのです。さらに「同性愛者であるとの可能性を意識したことのある人」は、9%の640万人です。この社会が同性愛者に対する偏見を克服すれば、自己肯定が進んで9%に近づくのではないかと書かれていました。数はあまり重要ではなくて、性的に多様な人々が存在するということを理解していただければ、と思います。

レズビアンの語源は、紀元前6世紀の古代ギリシャの女流詩人、サッポーという方がいました。そのサッポーは女性だけの学校を作ったのです。その島はレスモス島、その名前からレズビアンという名前が生まれました。さっきのホモ・セクシュアルと同じなのですが、略語であるレズは、良くないのです。思春期の頃に、それは気持ちが悪い人なんだという感情を持ち合わせているわけで、実際に見たことも聞いたこともない存在として理解している場合が多いのです。その思い込みと否定的な情報の刷り込みで、レズビアンは自己否定をしてしまうのですね。この言葉は、レズビアンを侮蔑し、いじめるための言葉として使われることが多いです。当事者は、自らの存在とあまりにも遠くかけ離れているので、使われることにあまりいい感情を持ちません。後ろの言葉を取って「ビアン」という言葉が使われますが、それには「良い」という意味があるのでこれを使う当事者もいます。

次は、ゲイです。同性愛者の総称として使われてきたのですが、異性愛者の中にある性差別と同じように同性愛者の中にも男女の問題があります。その中でレズビアンは、弱い立場におかれていて、女性としての主張も必要になってきたので、レズビアンという言葉がゲイの後に出てきたのです。そのために、ゲイというのは男性同性愛者のことを指す言葉です。

バイ・セクシュアルという言葉は、性的指向が男性と女性の両方に行く人を言います。

トランス・セクシュアルは、一般的に「性同一性障害」と言われている人たちのことです。生物学的性と性自認が異なる人。性同一性障害は、医学用語であり法律用語です。当事者の間では積極的に使われている言葉ではありません。性の多様性の一部であって、「障害」という言葉を使うのはどうか、という意見があります。もともと性同一性障害は、gender identity disorderの訳なのです。そのdisorderは「間違い」ということなんですが、それが同一性障害と訳されることに疑問があります。だから、トランス・セクシュアルと表現した方が良いのではないかと思っています。

 次はトランス・ジェンダーですが、性別とは違う社会生活をする人または希望する人。トランス・セクシュアルは、体を変えたい、一般的には性転換手術と言われていますが、性適合手術とか性再判定手術とかによって、体を変えるまたは変えたい人です。それに対してトランス・ジェンダーは、体を変えないまでも、自分の性を変えたいという人のことです。その両方を広い意味で捉えて、トランス・ジェンダーと言います。

GID(Gender Identity Disorder)特例法というのが2003年に公布されて1年後に施行されました。岡崎市ではどうでしょうか、男女の記載をなくしたということがきっとあると思うのですが。私が塩尻に住んでいたときに問い合わせたところ、2004年の選挙から入場チケットに性別の記載をなくしたということです。印鑑登録証明書とか、福祉に関する申請書類とかをなくしたそうです。大分なくなってきたと思います。喜ばしいことです。

でも、全ての事柄から性別をなくすというのは早い、と私は考えているのです。男女の性差による生きづらさはまだまだあるわけです。それを明らかにしたりなくしたりするためには、まだ男女を明確にする場合があると思います。

たとえば、教会出席の男女比とか、教会で働いている人たちの男女比など圧倒的に男性が多いんですね。女性の方が無任所教師が多いんです。また礼拝出席者は女性が多い教会が多いのですが、役員とかはほとんどが男性であることがあります。私はこれに、どうしてかと疑問を持っていますが、この問題を知り明らかにする為には男女の統計が必要になってきますね。

トランス・ヴェスタイト、性別とは違う身なりで生活する人、それを望む人。男であれば女性の格好をしている人です。

インター・セックスですが、男とも女とも判別しにくい人、半陰陽や両性具有の人。両性具有というのは、インター・セックスの中でも半陰陽の場合はそう呼ぶのだそうですが、男性と女性の両方の特徴を与えられた人のことを言います。でもこれは幼いときに、本人の意思とはかかわりなく、外科手術をなされてしまっています。最近では、当事者によってDSD(Disorders of Sex Differentiation)という、性分化発達障害という呼び名に変わりつつあるそうです。新生児2000人に一人の割合で生まれるそうです。男女の二分法の中に入りきれずに悩んでいるのですね。ある方の話ですが、ずっと男として育てられてきたのです。思春期になったら、胸が膨らんできた、いわゆる女性らしい体になってきたんです。本人もインター・セックスであると教えられていないものですから、ずいぶん悩んだと聞きました。それが本人にも隠されてしまっているし、手術とかも本人が分からないときになされてしまうことが問題だと思います。

次にAセクシュアル。これは一般的に、性欲や性的指向を持たない人を言います。

次は、カミングアウトです。Comming out of Clozet というのがもともとの英語です。つまり、Clozet「押入れ」の中から出てくること。セクシュアル・マイノリティーはセクシュアリティを隠して、押入れの中に隠れている、人前で話さないのは押入れの中に隠れているようなものだ、だからそれから出てくることをカミングアウトと表現しています。セクシュアル・マイノリティーであることを公言すること、カミングアウトすることによって、相手との関係性を変えていくプロセスに対して付けられた言葉です。ですから、カミングアウトは、それを受け取った人が変わることも含んでいます。

たとえば、私が親しい友人に「わたしはレズビアンなんだよ」と言ったとします。友人が「あなたは、あなた。あなたがレズビアンであることは関係ない。私たちの関係は以前と変わりないし、これからも変わらない。」と答えるとします。でもそのレズビアンは「今まであなたが思っていたわたしとは違うんですよ、これからあなたとわたしの関係は変わっていくんですよ。レズビアン、女性として女性と大切な関係を結んでいるものとして接してほしい」と伝えたかったのですが、それが伝わらないのであれば、ではカミングアウトにはならないのですね。もし、カミングアウトをされたら、それはあなたがその人に心から信頼されている、と思ってください。そして、共に生きる一歩を踏み出していただけたらとも思います。カミングアウトは「今までのわたしと違うんですよ。本当の自分としてあなたと関わっていきたいんですよ」ということなんです。

長くなりましたが、用語の説明はこれで終わりにします。

セクシュアリティーの多様性を理解するために

次に、セクシュアリティーを理解するために、次の図を作ってきました。ご覧下さい。

セクシュアリティーを理解するため

これまでにお話した四つの指標、性別、性自認、社会的・文化的性、性指向に分けます。性別(生まれたときの性別)は男と女であるのに、同じ男でも性自認は二つの方向があります(女性も同様に)。さらに社会的・文化的性に至っては、それぞれが男か女への指向があるわけです。さらに性的指向は、さらに多くに枝分かれします。これだけ多くのセクシュアリティーが存在するのです。

それなのに、たとえば男であれば、男としての性自認を持ち、社会的文化的性でも男らしく振る舞い、性指向は女を指向して年頃になったら女性と結婚する、という線(あり方)が男性の異性愛者ですね。女であれば、自らを女とし自認し、女らしい社会的・文化的性をもち、性指向は男に向くのが女性の異性愛者です。図の矢印で示したものです。これだけ多様な性のあり方の中で、このたった二つの性のあり方しか認められないのは、おかしいのではないかと思うのですね。

性別でも、インター・セックスの人がいますので、これもはっきりと二つに分けられないですね。性自認でも、男でも女でもないという人だっているんですね。社会的・文化的性でも、男女に真っ二つに分けられるはずがありませんので、もっと複雑になるのです。

一般的に自明であり当たり前であると思っていることも、この図を見ていただくと、自明でも当たり前でもないことが分かっていただけると思います。

カミングアウトするということ

セクシュアル・マイノリティーであることを公言していくことは、大変なことなんです。テレビでもよく取り上げられていても、それは文学や芸能の中のことであって、それがあなたのすぐ隣にいるとか身近なこととして想像できないんですね。もし自分がセクシュアル・マイノリティーであると気付いても、日常的な生活の中にそのような人がいないという社会の中で育つわけですから、それを肯定的に捉えることがなかなか難しいのです。ですから、カミングアウトとは、自分自身がセクシュアル・マイノリティーであることに自覚的になって、さらに肯定的に受け止められるようにするということが、先ず一つ目のカミングアウトということができます。

多数者の異性愛者がこれを必要としていない、といってもいいかもしれません。生物学的に女として生まれ女と自認し女らしく振る舞い男性と大切な関係を結ぶ、そのことを社会は積極的に受け入れているわけです。でもその異性愛者であることから逸脱する、二つのライン以外で生きるということは、それを自覚していく段階で悩みを持ちます。それは、二つのライン以外に多様な性のあり方あるという情報を与えられないのがほとんどなのです。テレビでは○○との熱愛発覚、結婚などが報告される。ある年頃なればそろそろ結婚していいんじゃないのとか結婚を勧められて、そればかりか誰も頼んでいないのにお見合いまで勧められるわけです。子どものころは、女らしくしなさい、男らしくしなさいと言われて、男女二分法の中に組み込まれていく。とくに性を自覚していく思春期に、異性愛者であっても悩み多き時代なのに、さらに大きな悩みを抱えざるを得ない状況に追い込まれるのです。ですから、なかなか自分自身を肯定するには至らないのです。現在ではインターネットが普及していますので、検索すれば情報はすぐ手に入ります。ですから、以前よりは情報が得られないということはなくなってきているかもしれません。

そこで、カミングアウトの次の段階にいきたいと思います。今まで話したのは、自分自身へのカミングアウトだとすれば、次は個人的なカミングアウト、身近な人への公言です。自分自身のカミングアウトができて、仲間との知り合って、最近はオフ会というのがあってそれに参加してセクシュアル・マイノリティーだけのコミュニティーが生まれて、自分以外でも同じような人と出会えるようになったとして、しかし仲間内だけでセクシュアル・マイノリティーは生きているのではないのです。両親、友だち、学校、会社、地域社会などいろいろの場所で、いろいろな関係を築きながら生きているわけです。その中は、残念ながら異性愛者が当たり前として、異性愛者主義でそれ以外を受け付けない社会があるわけです。いろいろの関係があるわけですがその関係が大切であればあるだけ、セクシュアル・マイノリティーであることを隠して生きるのは、なんだかうそをついて生きているみたいで、卑屈なわけです。居心地が悪いわけです。自分自身を肯定できたときに、そのことを伝えていきたくなる、いや伝えないではいられなくなるのです。今日お出でになった方の中にも、言ってもらえた方がおられるかもしれません。それは、信頼関係にあり、本当に素敵な関係を作ってこられたのだなあと思います。

個人的なカミングアウトというのはそういうことなんですが、次は社会的なカミングアウトというのがあります。これは自分自身の生活圏以外で公言していくことです。わたしは同性愛者です、わたしはトランス・セクシュアルですと、人々の前でまた出版物などを通して公言していく、これは本当に大切な作業だと思います。まだまだ多くのセクシュアル・マイノリティーの人が、自分以外の仲間が近くにいない、生活をしている人がいないと思っている仲間たちの力になる。プリントの中にも「キリストの風」のグループのことが書いてありますが、このセクシュアル・マイノリティーの人たちの活動が紹介されることが社会的カミングアウトになります。これは、異性愛者主義という強制された空間の中で窮屈さを感じて過ごしている異性愛者自身の解放にもつながるのではないか。例えば結婚制度があります。制度は必要であり、それによって生きやすくなるからつくられるでしょう。でも、制度が人生観を決定するようになってしまうということがあるのではないでしょうか。そうなることによって、人を生かすための制度が人を強制する機能をはたしてしまうことによって、窮屈になるのではないでしょうか。制度があるから結婚するのか。性の多様性に出会い知ることにとって、画一的な性のありようから自由になることへ繋がっていくと思います。

こんなエピソードがあります。ある人が、自分はレズビアンですとカミングアウトした、たとえば教会のようなところで、そこでカムアウトした本人の友人がいました。そして友人のお母さんも同席していました。お母さんの感想は、「何で言わんでもいいことを言うのかなあ?」でした。そこで友だちの娘さんはこう言いました。「言わんでもいい社会になるように言うんとちがうか?」と言ったわけです。お母さんは社会という領域の中で何故プライベートなことを持ち込む必要があるのか、という疑問を持ったのですね。このパブリックな領域で、性に関することを言うのはいかがなものか、それはプライベートな領域なんだ、と考えたのでしょうね。現在の社会では、とくに異性愛主義が当たり前という空間がある、これに対してこの娘さんは「異性愛者が当たり前というのは違うんじゃないの?」という問いかけをすることができたのです。話さなくても、同性愛者が生き生きと生きられる社会が来ることを願っています。

セクシュアル・マイノリティーが、社会の偏見と向き合いながら、その力に押しつぶされそうな思いにさいなまれながら生きていることを、覚えていただきたいと思います。

「神はお造りになったすべてのものを見た。それは極めてよかった。」

次に、創世記第1章の話をします。創世記の中でも1章の31節の「神はお造りになったすべてのものを見てそれは極めてよかった」と、2章の前半の部分をお話させていただきます。

聖書の始めに記された全世界の創造物語は、すべて神によってなされ、すべて神によらないものは何一つない、という宣言でもあります。わたしたちは、生まれて良かったのかと悩むのですが、また何故存在するのだろうか、もしかして存在しない方が良かったのではないか、と思ったりすることがあります。しかし、神はわたしの創造に何一つ不必要なものはない、必要でないものがこの世に存在することは決してない、と言って、一つ一つ自ら作られたものを見て「きわめて良かった」と言ったわけです。生きることの寂しさというのは、もしかして必要とされていないのではないかという迷いから出てくるのかもしれません。その思いに、神の創造は、まったく、くまなく、隅から隅まで私の被造物であり必要とするのだ、と宣言してくださっているのです。

創世記の中では、人間の創造も出てきますね。「神は人をみ業のうちにお造りになった、神にかたどって人を創造された、男と女に創造された」というふうにあるわけです。実は、この思想・信仰は、創世記が記された当時は、とてもセンセーショナルな言葉で人々は驚いたのです。「神の御姿に男も女も創造した」と言うことは、過激なこととして受け取ったのです。女性は人として扱われていなかった。今では考えられないことでしょう。女性が人として扱われてこなかった理由の一つに、その生態の不思議さがありました。女性が子どもを産むということが科学的に証明されていなかったことがあります。どうしても、女性が子どもを産むかということが、更に女性から男性が生まれてくることが理解できなかったのです。わからないことを目の当たりにすると、人は否定したり、崇めたりします。被差別者の歴史をたどってみても、崇められたり、強く否定されたりということがあります。この当時の女性は排除されていたのでしょう。

その只中に神は女性も男性も創造された、しかも神に似た姿で創造したのだ、そういう知らせが創造物語によって届けられたのです。これは、当時の社会に対する挑戦と受け止められて、きっと多くの人々が驚き怪しんだことだと思います。しかし、それは女性たち、そして共に生きようとする男性たちにとってどんなに喜びであったか、と想像します。そして神様は、人間を創造された後に祝福します。創造された人間がどのような人生を送るかを求めることはしないで、創造の後にすぐに祝福がくる。人間以外の被造物の責任を負うことが示されて、女が軽蔑され、人が人を支配することが退けられていくわけです。

現在では、それに対して驚きはありません。この人間創造の命の言葉、現在わたしどもに何を語りかけているのかを考えるのですが、かつて女性が人として扱われなかったとき、人としていろいろの科学的証明がある前から、人との交わりの中で人として命を尊ばれた。この福音というものは、共に祈り生きあうなかで告白されたのではないでしょうか。女性であるあなたも、神の創造です。そして現在も、神の創造の中に人の力や知恵では思いも及ばないことがあるということを、今日は少し知っていただけたかと思います。

人間の評価でははかり知ることが出来ない素敵な存在がある、その素敵な存在を受け入れることができない、人が人を支配して排除していくこともありますが、真実の出会いと神の業への想像力を持って創造物語の記者がそれを乗り越えることができたように、今、神の創造に信頼し、乗り越えることができるのではないか、またそうしていきたいと思います。

もう一つのことは、2章の人の創造のところです。『主なる神はアーダーマー(土の塵)でアーダームを形作った』と、人間の創造がそのように示されています。土であるアーダーマーの塵、アーファイル、塵は荒れ野に乾いたもの、風に巻き上げられて飛んでしまうような土埃(ほこり)のことを言うそうです。吹いたら飛んでしまいそうな塵で私たち人間は造られた、そこに神の息が吹き入れられて、それによって生きるものとなった。一人一人は神によって作られ、神の愛なる息吹によって生きるものとされた。最初に作られたものは誰か、男ではないのです。アーダーマーは集合名詞で、性が限定されていません。人の命はまったく神によって、神に依拠しています。

『主なる神は人がひとりでいるのは良くない。彼に合う助けるものを作ろう。』

2章の最後に飛びますが、創造のクライマックスは、アーダームと共に生きる人間の創造です。『主なる神は人がひとりでいるのは良くない』。人は一人では活きられないとうことを良く知っておられ、彼に会う助けるものを作ろう、と記されています。ここで注意したいのは、人間アーダームを「彼」と訳していることです。『彼に合う助けるもの』、助けるものは、「エーゼル・ケネブドー」という言葉です。エーゼルは助手、仲間、相棒という意味で、英語ではヘルパー、サポーター、パートナーというふうな意味です。ケネブドーというのは、~のようなとか、~として、~に向き合う。ブドーというのは、~の前にある、という意味です。ヘブライ語では、~にふさわしいとか、~に合うとかの意味がないのですね。ですから、人間アーダームの前に存在し向き合うような仲間、連れ、相棒であるパートナーを作ろう、というふうに言うことが出来ると思います。ケネブドーの「ドー」というのは、代名詞で「それ」と訳すことができますから、新共同訳はこの集合名詞が男性形であるので「彼」と訳していますが、アーダームが性を帯びていない集合名詞であるということからも、「彼」と訳すのは話しが突然に飛躍してしまうことになります。

そしてここから、18,19節に続くのですが、これは男女の関係として続いているのです。しかし、トーンが変わっています。これはおそらく、天地創造物語を記した記者が、人と人との関係性を表わす代表的な夫婦関係をここにあげた、ということができるのではないか。多くの人々が受け入れることができるように、納得できるように。しかし、夫婦関係として男女の関係を、表面に表わされた物語の奥に、関係する存在としての人間という真意が隠れていると。いろいろの関係があることが分かっていただけたかと思います。ひとりで生活している人も、友人同士で助け合って生きている人も、同性同士で大事な関係を作っている人もいる、親子で共に生きようとパートナーシップを作っている人もいます。本当に多様なんですね。現在でも、創世記が記されたときのように夫婦関係が数として圧倒的に多いですけれど、その他の関係を聖書は排除することなく、物語の奥にちゃんと示しているんですね。

主なる神は人間アーダームを深い眠りに落として、パートナーである人を作り上げた、そして神ご自身が人を連れてこられると、アーダームである人は言います、「ついにこれこそわたしの骨の骨、肉の肉」と。親しい関係の最上級な言葉なわけです。思わず呼び合わずにはいられない関係です。この二人の関係は、お互いが裸であることも忘れて何の警戒心もなく、ありのままの自分でいられる関係ですね。裸であっても恥ずかしいとは思わなかったという関係です。骨の骨、肉の肉として向き合う関係なのです。それは家という枠を超えて向き合う関係、親と子、妻と夫、友人同士、また仲間同士、同性同士、この間柄というのは人が人として人と関係しており、制度という枠を離れることだと思います。家を離れて人と人とが関係を結んでいく、また女性も人間なんだという、本当にセンセーショナルな記事であったわけです。それを考えもしなかった当時の社会に、それを記したわけですから、ずいぶん驚いたことだろうと思います。その驚きがこの講演で感じていただけたでしょうか。そうであれば嬉しいです。

最後に、今日は用語を説明しながら情報をお伝えしましたが、わたしどもの現代は情報の多いですね。今は情報が多すぎて、それによる弊害もあります。あの人はどの言葉に分類されるのか、なんて頭の中で考えてしまいます。それは、目の前に生きる人との関係が、知識によって測りながらなされてしまうという危険性があるんですね。やはり、目の前にある命を響かせあう関係、対話の中に生きるものとなるように、願ってお話を終ります。

「らしく」生きるとは

佐野 都吾

小学校時代に5年間も担任していただいた恩師が大切にされた言葉は「らしく」であった。何の疑問も抱かず,「男は男らしく」「女は女らしく」生きていくのが理想と捉え,そうでない生き方が受け入れない私となった。例えば,テレビ番組に登場する,いわゆる「ニューハーフ」といわれる人や,「女性っぽい」話し方やしぐさをする人に,無意識に嫌悪感を抱く。

その一方で,「男性優先」の社会のあり方に問題があることを,茨坪の交わりの中で教えられてきたためだろう,自分から洗濯物を干したり,茶碗を洗ったりと,少しずつ家事を手伝ったりしていた。また,小学校の教師時代には,体育の整列時の二列横隊で,慣習から後列に並ぶ女子を前列にしたり,児童会長は「男子」という意識を,「能力優先」に変える試みに挑戦したりした。しかし,「男らしくない」人への蔑視は容易に拭えなかった。

そうした私の感じ方や考え方に,疑問を提示する話に出会ってきた。

ひとつは,もう10年以上も前だろう,テレビドラマの「3年B組金八先生」で,上戸彩演じる性同一性障害に悩む女子中学生の話に衝撃を受けたことである。外見は「女性」なのに,心は「男性」として生きたいと望んでいる。そういう人の存在に,カルーセル麻紀という人を通して,おぼろげながら気付いてはいた。しかし,その人の心に寄り添うことどころか,「苦悩」に関心を持つことはしなかった。

二つは,林牧師の4年前の創世記の説教『男と女 性の多様性の現実』であった。「世の中には男と女しか存在しない。建て前ではそうです。しかし,二分法ではくくりきれない多様な現実があります」と語られた。創世記に「神は…男と女とに創造された」とある。私はその言葉に何の違和感も疑問も持ってこなかった。

教会に通い始めたとき,日本基督教壇信仰告白を通して「旧新約聖書は,神の霊感によりて成り…神の言葉にして…誤りなき規範なり」と唱えてきた。そのことによって,聖書の一字一句全ては正しい,と言う認識が私の中で醸成されていたのだ。その「認識」に疑問符を付けてくださった林牧師。「男か,女か,とい『二分法』は,私たち人間の思考を固定し,現実をありのままに受け止め,自由に理解することを妨げる」「私たちと違うからだ,心であったとしても…その人自身を否定し,差別し,異常だと決め付けてはいけないと思う」と語る。聖書に,教規に書かれているから,という物差しで裁こうとする私たち……。

この2月10日の,宦官が「洗礼を受けるのに,何か妨げがあるでしょうか」と問うと,フィリポは即座に洗礼を与えた(使徒8:37)という,大宮牧師の説教は示唆に富んでいる。

三つは,昨年秋に開かれた愛知西地区「性差別問題を考える委員会」主催の講演会である。鈍いと言うか,案内文を十分に読まない浅はかさと言うか,講演者の名前と服装から「女性」の話が始まると私は思っていた。今思えば,ある意味でその認識は正しかったのだが,講演者は,性同一障害に戸惑いながら「人間の性の多様性が神さまの恵みであることを分かち合えたら素敵」と語る「Gi」改め「Gk」司祭であった。こうした場に来ても外見でしか人を見ない私の偏見は改まっていなかったのだ。

そして四つは,今回の川本恵子牧師を迎えての研修会である。事前の自己研修を兼ねて二冊の本を読んだ。私にとっては想像もできない深い苦悩が綴られていた。川本牧師も同様であった。性の「色」をはっきりとしないといけないという思いから「自分らしさ」を抑制して,思いとは違う行動をしてきた嫌悪感。虹の色は日本では七色と言われるが,それは実はグラデーションであり,色の境界ははっきりとしていない。だから,虹の旗(レインボーフラッグ)はセクシャルマイノリティーの人たちのプライドカラーになっていることを知らされた。「私は誰のもではない,私のもの。自分の性の主人公となる…自分を表現できるようになった…」ご自分よりも二倍以上の年齢で,頭の柔軟性はとうになくなっていると思われる者ばかりの前で,辛い体験を真剣に語ってくださった。

二日間の研修をとして,「らしく」生きるとは,人間が「自分らしく」「与えられた命を精一杯生きる,活かすこと」という意味だったんだ,と教えられた気がする。

研修会で学んだ事

吉谷眞佐子

“知らないことは罪である。また、差別されている側からは、差別する人か、しない人かのどちらかであり、無関心、知らない事は差別する側である”という事をずーっと昔に聴いたことがあります。今回、伝道所の研修会で、川本牧師を通して、「セクシュアル・マイノリティー」について、先生ご自身の体験を通して学ばせていただきました。充分に分かったわけではありませんが、今迄知らなかった事、知ろうともしなかった事に気付きました。“知らない”という事は、いつの間にか差別する側に立っている事が多いのではと思います。

一泊二日の学びで充分に知ったわけではありませんが、確実に分かったことは、世の中に男と女だけではなく、いろいろな性があるという事。そしてどのような性のあり方でも、ひとりひとりがかけがえのない存在だという事です。先生から直接お話しを伺えて、素直にこの事が実感できました。私にとっては、新しい世界を知る事が出来た研修会で、とても意味深いものでした。川本牧師との出会いを、心よりうれしく感謝して!

“神の国”は“0(ゼロ)”?
― セクシャル・マイノリティの研修会、そしてその後 ―

 森山浜子

昨年、川本恵子牧師をお迎えしてのセクシャル・マイリティの研修会では、多くの心に残るメッセージと言葉を頂きました。その中の一つに、「交わりによって引き出された恵み」という題の説教で話された、「神の国というのは固定したものではなくて、広がっていくものなのだ」という言葉がありました。テキストは、イエスに娘の救いを断られたフェニキアの女が「小犬も、食卓の下のパン屑を頂きます」と食い下がってイエスの心を動かし、救いに預かるというところで、このようにして神の国はどんどん広げられていくものだと、言われたのでした。

今年に入って、1月の島しづ子牧師の「主の食卓から」という説教では、聖餐式の源を探る中で、広く聖書の中から、イエスがいろいろな人々と共に食事をされた意味を解き明かされました。そして、イエスの死後、弟子たちは乗り気ではなかったけれど、異邦人との共食の機会が広げられていき、しかも割礼のないままで神の恵みに預かることが認められていったこと、そうでなかったら、現在、私たちが神の恵みの中にいることはありえなかったと語られました。現実に向き合って、人を生きづらくするような規制が変えられ、神の国が広げられていくことが、力強く語られました。

2月の大宮有博牧師の「誰かが私を手引きしてくれなければ、どうしてわかりましょう」という説教では、異邦人であり、なおかつ清くない者として差別されていた、「エチオピアの宦官」が、ピリポに手引きされてイエスの事を理解し、自分からピリポに言い出して洗礼を受けたことが語られました。そして大宮牧師は、このバリアーを超えた出来事は、ピリポの意思を無視して、神のみ使いと霊によって導かれて実現したのだ、と話してくださいました。私の中では、三つの説教のメッセージが響き合っています。

そして思うのですが、これらの共通点として、福音が広げられたときそこに生まれたのは、無視されマイナスの状態に置かれていた人々が、視野の中に入れられて存在することになった、という状況です。神の国というのは、マイナスの状態にある人々がゼロまで引き上げられて、公平に扱われることなのかなあと思っています。マイノリティであることも、異邦人であることも宦官であることも、何も変わるわけではないけれども、ちゃんと声が聴かれて、認められて、座標軸の上に存在すること、そうなったとき、それはその人にとって神の国の実現なのではないかと思いました。

神様の恵みは、特別に豊かな財産や知識や体力や権力が与えられるような、プラスが増すことではないようです。神の国は、イザヤ書11章で「狼と小羊、豹と子山羊、子牛と若獅子、小さい子供、牛と熊、獅子と牛、乳飲み子と毒蛇、幼子と蝮、らが穏やかにが共存する状況」と喩えられます。特別に弱いことも力が強いことも、人より何かができないこともできることも、人より速く走れないことも走れることも、どんな姿かたちも、どれも評価の対象にされない、マイナスにならない、特権にならない。あるがままそのままで、そこにいるものが誰もマイナスにおとしめられないでゼロで共存できることが、神の恵み、神の国の中にいるということなのかなあと思っています。

    
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