2013年9月29日 犬養光博牧師説教 於:岡崎茨坪伝道所

私たちに『安全』はない

ルカによる福音書1:14
1:14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。

はじめに

初めて来させていただいて、とても安心しました。
 ここに至るまでに、吉谷さん、原田(忠)さんを通してお世話になっていたということをとても強く思います。今日は山中さん夫妻にも久しぶりに会えて非常にうれしいです。
 先ず自己紹介ですが、週報に書かせていただいております。加えて、ぼくは46年間筑豊にある小さい伝道所で生活をしてきたんです。一昨年の3月でその伝道所を閉じて、46年間共に歩んできた友人たちと別れて、今、長崎県の松浦市という所に住み、30分くらいの所にある、平戸伝道所で協力牧師ということで礼拝を守らせていただいています。
 来る前に、吉谷さんに送っていただいた本や資料を読んできたのですけれども、読めば読むほどもう少し早く出会えばいろいろ教えを請うことができたのではないかなという気がしています。ぼく自身が46年間、福吉伝道所という所で試みてきたというか、歩んできた事と同質のことが茨坪伝道所という所でも行なわれていたのではないかなという気がしているんです。
 46年間ですけれども、30周年の時に「福吉伝道所と私」という冊子を作ってもらったのですね。その最後の所で「福吉伝道所の特徴」と言うことで7つのことを挙げたんです。

     
  • 伝道所であり続ける。教会にならない。
  •  
  • 補教師であり続ける。教師にならない。 (ぼくは今も補教師です。)
  •  
  • サクラメント(聖礼典)を今まで行ってきたことがなかった。(46年間結局やりませんでした。)
  •  
  • 役員会を置かない。
  •  
  • 予算を建てない。
  •  
  • 常に教会の外から問われる。外にイエス様が居られることを知らされてきたわけです。
  •  
  • 複数の先生に育てられることを善しとする。

この7つが福吉伝道所の特徴ですが、茨坪伝道所の記録を読ませていただきながら、かなり重なっている部分があるなと思い、もう少し早く知っていればいろんなことを教えていただけることができたなと思っている所です。46年で閉じたわけですから、ぼく自身も未完のままで、あれで良かったのかなという気持ちを持ちながら、今は別な生活をさせてもらっているわけです。こういう思いを持っている者がここに来させていただいています。

「戦争放棄」が「安全保障」に

「安全神話」とよく言われますが、私たちは安全だというふうに信じてしまっている。自民党の憲法改正草案を読みましても、すごい国になって、日本の国が世界の平和に尽くさないといけない立場になって、こういう素晴らしい国を子孫に残していくために、自分たちは憲法を改正するんだという。これは草案の前文に書かれています。この素晴らしい日本を子孫に残さないといけないから私たちは憲法を改正するというのが、前文ですね。
この、“素晴らしい日本”、ですとか、“日本の役割は世界ですごく大切”だとか、“この国は非常に安全だ”、などということが前提にされているのですが、こんなことが本当に言えるのだろうかというのが感想でした。
それで今日は、「私たちは『安全』ではない」という挑戦的な題をつけさせていただいたのですが、憲法の問題から最初入らせていただきたいと思います。
『週刊金曜日』が、改正案と現行の法規との対比を一目瞭然に分かるように書いてくれました。9条を始めとしていろんなことが問題になっているんです。最初の課題として、今の憲法は前文があって、その後1章から11章まであります。自民党の改正草案も1章から11章あるんですけど、大きな違いは2章です。1章は天皇ですね。これも問題ですけれど、現行法規も1条から8条が天皇で、次が2章で9条だけです。そしてその章の見出しが「戦争の放棄」。小学校1年生が敗戦の年で、2年生の時に、この9条のことを教えられた覚えがあるんです。
2章は「戦争の放棄」ですが、自民党の改正草案では何に変わっているかご存じですか?2章は「戦争放棄」に代わって「安全保障」に代わっているんです。週報に書きましたが、現行法規の9条には「安全」という言葉はありません。前文に「安全」という言葉があるんですが、私たちの憲法の9条には「安全」という言葉はないんです。2章の改定案の9条の1から3までの間には安全という言葉が2回出てくるんです。どんな文脈で出てくるかというと「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するために」「国際社会の平和と安全を確保するため」というふうに出てきます。
つまり9条の戦争放棄というのは、どぎつい言葉なのです。そして「平和」というのは改正草案にも随分出てくるのですが、「安全」という言葉がここに入れられて、皆さんは違和感を感じられませんか。
ぼくはこれを見た時に、ボンヘッファーが1934年8月、28歳の若い時にファネーという所で、これはデンマークにある小さな島ですが、まだ世界教会協議会(WCC)ができる前の世界運動の初期にボンヘッファーが関わって、そこで平和についての発題をしているんです。これ自体は短い文章ですけれども、このことがある意味でボンヘッファーの戦い全体の出発点になるわけです。週報にも書きましたが、その中に「安全に至る道を通って平和にいたることはできない。なぜなら平和はそのために行動しなければならないものだからである。平和は安全の反対なのである。」とあります。それに続けて週報で「私たちが『安全』を求める限り『平和』は得られない。『安全』を放棄したところで平和が与えられる」とあるのはぼくの言葉です。
ボンヘッファーがファネー講演でどんなことを言ったかということをもう少しくわしく原文で紹介しておきたいと思うんです。(資料参照)こういうふうに言っているんです。
「平和はいかにして達成されるのか。政治的な条約の積み重ねによってか。いろいろな国に国際資本を投資することによってか。」政治的な条約の積み重ねというのは安全保障条約ですよね。日米安全保障条約をはじめ、我が国もいろんな国と安全保障条約を結んでいるわけですけれども、ボンヘッファーは政治的な条約の積み重ね、安全保障するという条約を積み重ねたら平和が来るのか。あるいはいろんな国が国際資本を投資することによってか。これに関しては、日本はいろいろやっています、安倍(首相)がいろいろな国へ行っていい顔ができるのは日本の国がそれだけの資本を分配しているからなのです。そういうことに基づいて、今、諸国歴訪が保証されていくわけです。
ボンヘッファーは1934年の時点で「いろいろな国に国際資本を投資することによってか。あるいは平和の確保のためにあらゆる方面で平和的な再軍備をすることによってか。」これはまさに日本の国がやっていることですね。「そうではない。これらのことによっては平和はこない。なぜならここでは平和と安全とが混同されているからである。安全にいたる道を通って平和に至ることはできない。なぜなら平和はそのために敢えて行動しなければならないものだからである。平和は安全の反対なのである。安全を求めるということは、相手に対する不信感を持っているということである。そしてこの不信感が再び戦争をひきおこすのである。安全を求めると言うことは自分自身を守りたいということである。平和とは、神の戒めにすべてを委ねて、安全を求めないということである。信仰と服従によって、諸国民の歴史を全能の神の手に委ねることである。諸国民の運命を自分に都合よく左右しようと思わないことである。武器をもってする戦いには勝利はない。神と共になされる戦いのみが勝利をおさめる。そのことによって十字架に行き着くことになっても勝利はなおそこにある。」というのがボンヘッファーのファネー講演です。このボンヘッファーの私たちに対する呼びかけを、今私たちの情況の中でどういうふうに受けとめるかということが大きな課題じゃないかなと思います。
9条の論議も盛んですけれども、「戦争放棄」の条文が「安全保障」という言葉に代わっていることに対し、これはおかしい、安全を追及したところでそこから平和は生まれてこないんだとボンヘッファーが語ったことを、どこで私たちはしっかり受けとめることができるのか。
それで週報に書いたように自民党草案は自民党によるクーデターだといった人が少なくとも二人は知っているんですけれども、本当にそう思うんです。クーデターを自民党が起こそうとしているのに反対する勢力をふくめてこの静けさはなにか。何かそこに乗っかてしまっている。反対する側もそこに乗っかってしまっているのはなんなのかと問い返してみたときに、それは「安全神話」、安全ということに私たちはごまかされ、本当の安全とは一体何なのかと言うことは追及されないままできたんじゃないかと思うのです。
ぼくは今日は否定のところだけで、『私たちに安全はない』としたんですが、括弧でもう少し付け加えるとしたら『しかし平和はある』ということです。「私たちに安全はない。しかし平和はある。」と結びたいなと思っているところです。これは説教題の問題ですね。

忍耐曲線

じゃぼく自身がどう考えているかということを、自分の文脈の中で話をさせていただきたいんです。
カネミ油症事件というのに出会いました。1968年です。北九州の小倉という福吉伝道所から車で1時間の所にある小さい工場が糠から油を抽出することに成功して、その過程でPCBが混入してたくさんの人が病気になり、たくさんの人が亡くなってゆきました。1968年に起こったんですが、ぼくはその翌年からカネミ油症事件に紙野柳蔵(カミノリュウゾウ)というルーテル教会の信者さんの呼びかけに基づいて一緒に関わるようになったんです。
カネミ油症事件というのは、ぼくにとってとても大きな出会いでした。その初期にカネミの被害者たちがみんな集まって大集会というのを持ったんです。その時の講師が宇井純さんでした。最近亡くなられました。宇井純さんというのは水俣に始まって、いろんな公害に誠実に関わってこられ、東大で自主講座をずっと続けてこられた人です。
学者が来るというのに被害者は皆、聖書に書かれている救い主が来るみたいに、この人の話を聞いたら救われるんじゃないかと本当に思ったんでしょうね、戸畑というところにいっぱいの支援者や患者が集まって、宇井さんが何をしゃべってくれるのかという期待で聴いたんですね。
淡々と話をしたんですが、忘れられない話があるんです。1971、2年に聞いた話だと思うのですけが、東大の助手ですけれど、こんな実験をしたというんですね。
水槽にメダカ100匹飼って、スポイトで毒を1滴ずつ垂らしてメダカはどう死ぬかという実験をしたんです。メダカがどうなるかという統計を取ったんです。スポイトで1滴ポトッと落としても100匹のメダカは変わりなく泳いでいたというんですね。2滴落としても3滴落としてもそんな変化はないんですけれども、4滴くらい落とすと毒の直下にいるものとかあるいは弱いメダカなんかから浮き始める。でもその数はたいしたことはなくて1匹とか2匹とかが浮き始める。こうして1滴ずつ落としていくと何匹かが浮き始めるんです。どうなったと思いますか?と宇井さんは聞くわけです。みんなはだんだん直線的に減っていくように思っていたんですが、実際はそうはならなかったんです。10滴くらいからこの直線が断崖のように下がってしまう。ずっと直線的に勾配をもって減ると思っていたのに、あるところで勾配が断崖になり0になるところがある。今すぐにでも0になるぞというこの急カーブのところのことを私たちは忍耐曲線と名づけています、と宇井純さんは言いました。
それが1970年代の初めのことです。それから私たちはチェルノブイリを経験しました。成層圏を含めて本当に密封じゃないですか、私たちの世界は。その中で起こってくる毒とかなんとかを全部含みながら、そのメダカが1匹2匹死んでいる時には、他の者は、あいつは何か悪いことをしたんじゃないか、あんな目に遭って、みたいなことを語っている仲間たちと同じように、私たちは公害被害者たちとか、どっかで起こるいろいろな事件を、なんか他人事のように思ってきたんだけれど、ほんとうに水槽の中にいるメダカですよ。
ぼくは紙野柳蔵という人を通して、カネミ油症事件に出会った時に一番はじめに気付いたのはそのことでした。苦しんでいる人を助けるのではなくて、私たちがこれから経験しなくちゃいけないことの先取りなんです。ぼくは「予表」という言葉を使うんです。当たり前の生活で、この生活が長く続くと思う安全神話が崩れて、この人たちが今受けているこの事柄を私たちも受けなければならないということの予表。だから私たちは思いっきりその人たちから学ばせてもらわないといけない。ぼくはそういう形で公害闘争に関わらせてもらいました。これは予表なんだ。これは私たちがこれから受けなければならないことなんだということ。
水俣でも日本の国がどうなるかという暗い話ばっかりです。死んでいったメダカたちと同じように忍耐曲線がぎりぎりのところまで来ているのに、被害者である私たちがこんなに苦しんで、こんなに訴えているのにどうして分からないんだという発声をしているのに、なかなか私たちは耳を傾けようとしないのです。
それで安全だ、安全だといっている。自民党の人たちだけじゃない。私たちみんな含めて、安全だ安全だといっている。そんな情況の中で、本当に予表が突きつけられていると思います。
紙野さんというのはすごい人で、ものすごく苦しまれるのですが、その苦しみの中でやっぱり油症になって良かったとか、生きてて良かったとか、水俣の人たちが全部じゃないですけれども、叫んでいるのと同じように叫んでおられるんですね。水俣やカネミになって良かった、生きてて良かったと。じゃ油症被害者というのは、「修羅の予表」、私たちがこれから受けなければならない、安全神話に悠々としている私たちに対する大きな問いかけだけではなくて、そうなった時にも、なお生きていることが幸せだし、良かったと言えるような、「救いの予表」でもあるということを紙野柳蔵という方から教えられたのです。

「元の体、もとの家庭に問題がある」

紙野柳蔵という人がある時、カネミの前に被害者や支援者がたくさん集まって、カネミに対する抗議行動をしたのです。3年8か月、最終的にはテントを張ってカネミの前で過ごされるんですけれども、その最中でした。全国から集まった人たちがみんな来たのです。それでカネミの前で「元の体を返せ。元の家庭を返せ」と叫ぶんですね。家庭はめちゃくちゃにされます。水俣もそうですけれども、カネミもそうです。体もぼろぼろにされるんです。ですから、「元の体を返せ、元の家庭を返せ」というのは必死の叫びで、批判する余地なんかまったくないのです。そのとおりなんです。
でも紙野さんはぼくに告げました。「先生、私はあれが叫べなくなったんです」。3年8か月の座り込みをされていてです。「どうしたんですか?」と聞いたら、「元の家庭に問題があったと思うし、元の体に問題があったと思うのです。」なんですかそれは?と聞いたら、「私たちが油症で苦しむ前に水俣の人たちはもうすでに苦しんでいた。私はテレビを通し、新聞を通して水俣のことはよく知っていた。大変だなと思ったけれど、私の体、私の家庭を崩すまで、水俣の事柄は私の家庭に入っていなかった。水俣の人たちが本当に大変だなと少しでも分かるようになったのは、私もまたカネミ油症で苦しんだ時、初めて痛みや苦しみがどんなものか自分のこととして分かるようになった。先生、あんな人の痛みや苦しみを分からん家庭や体を返してもらっても同じことをしますよ。私の公害闘争は家庭を新しくしていただくこと、私の公害闘争は新しい体にしてもらうことこそ、公害闘争だ」。
すごいなとぼくはその時思いました。教会は問いは外からもらうけど、答えはこっちにあるといつも考えるのですが、ぼくはそれは教会の傲慢だと思っているのです。本当に苦しみの中から、私たちの家庭がぼろぼろにされて、私たちの体がぼろぼろにされて、でもそれで終わるんじゃなくて、新しくされることを通して、やっと人の苦しみが分かるようになるということを、紙野さんがカネミ油症ということを通して訴えているのです。
つまり安全ではないのではないですか。安全な家庭が崩され、安全であると思っていたことがそうじゃなかったんだということの経験をどこでするか分かりません。でもそのことを通してしか平和はないのだということは、聖書のメッセージだと思うんです。宇井純さんが安全なところはもうどこにもないと1970年代に注意してくれた路線というか忍耐曲線がどこまで行っているのか分かりません。明日にでも私たちが公害被害者と言っている人たちと同じような目にあっても仕方のないような情況の中で私たち全体が生きている。そのことをいうと、「それなら何をしてもしょうがない。飲め、食え。途中でどうなるか分からんのだったら楽しんだらいいじゃないか。倫理も何もあるか」という問いが出てきそうなんです。けれども、紙野柳蔵さんが言われたように、新しくしてもらうことはできるし、家庭も新しくなることができるんだ。

上甲のおばあちゃん

ぼくはカネミ症事件という公害を通してだけじゃなくて、筑豊という場所が今から思えば嘘みたいな話しなんですけれども、石炭が要らなくなって石油に代わった1960年代、筑豊の失業者が15万人、大手は80年代まで残りますけれども小さいところからどんどん崩されていって、60年代から日本は右肩上がりの高度経済成長社会を迎えるんですが、筑豊はずっと底辺をはいずり回りました。今もそうです。
今もそうですといっても、目には見えません。本当に救いのない、苦しみは経験したけれども、安全は崩されたけれども、どこでどう生きていったらいいのかという歩みの中で、学生の時から含めると50年間、筑豊の中で歩ませて頂きましたが、全部とはいいませんがそこで光だなというような人に出会ってきました。
上甲のおばあちゃんというのは、いろんな事情があって、息子さんがものすごい借金してみんなに迷惑をかけたんで、村八分のような状態になり、百戸くらいの小さい集落ですけれどもその端っこの方で細々と生活されていて、福吉伝道所は100メートルも離れていないところに在ったんですけれども、クリスマスとお正月は皆1品持ち寄りで楽しむ会をしていたんですね。
お正月だったんですけれども、近所の人が駆け込んできて、「犬養先生大変だ、上甲のおばあちゃんが死にそうだ」というものですから、すぐとんでいったら、ボタ山の裾野のぼろぼろの家で、ぼろぼろの、布団と言えないような布団に蹲って、目だけぎょろぎょろしていたんです。息も絶え絶えだったんですね。100メートルくらいしか離れていないのにです。どこかのスラムじゃないのに、一方では教会でどんちゃん騒ぎまではいかないでも、お正月をみんなで楽しくやっているわけです。そのすぐ横で今にも死にそうな人がいる。すぐお医者さんに来てもらったんですが、「これは栄養失調です。放っておいたら大変ですよ。」というのですぐ入院させて、それからこのおばあちゃんが死んだら牧師を止めなきゃいかんと思ったものですから、張り付いておばあちゃんと一緒に「ごめんね、ごめんね」といいながら過ごしたんです。お医者さんは、少し病状が良くなったら、退院を進められましたが、家に帰したらまた同じですので、いろんな工夫をして病院に居てもらって、最後には養護老人ホームに入居されて、上甲のおばあちゃんはそこで亡くなりました。
亡くなるどれれくらい前だったか、訪ねたぼくを呼んで、ベッドに座り直して、着物の寝間着を着ていたんですが、帯を緩めて、帯の間から財布を出しました。煮染めたようになった財布です。中には千円札・五千円札がぴっしと束ねてはいっていました。この人は生活保護をもらい、食べるものも食べないでずっと持っていたのではないかと思えるようなお金です。おばあちゃんにとってはこれが救いなのでしょうね。これがある限り大丈夫だということだったのでしょう。このおばあちゃんは無口でしゃべれない人だものですから、それを差し出して、顎をぐいと出して、ぼくにやるというわけです。見たら10万円以上入っていました。
本当に涙が出て止まりませんでした。この金があったら栄養がとれただろうに思いました。「おばあちゃんなにか良いもの食べようか?」といっても首を振るだけでした。しばらくして亡くなっていかれました。
ぼくは46年間の教会生活の中で、ぼくの説教を聞いて全財産を投げ出してくれた人は、だれもいません。でもこのおばあちゃんは本当に全財産をぼくに委ねたんですよ。とにかく人間というのは素晴らしいなと思いました。

苦しんでいる人がキリストと共に来られた

福吉伝道所は、みんな誤解して、福吉伝道所に行くとキリストに会えると思って、来てくださる人たちがたくさんいますが、最期を福吉伝道所で過ごした仲間が何人かいるのですけれど、ぼくは本当に思うのですが、福吉伝道所には何もない。間違って福吉伝道所を訪ねてきた人たちが、振り返ってみると本当に苦しんで、本当にいろんな人たちに結びつけられて「ここに」という気持ちで来られたのだけど、その人たちがキリストと一緒に来てくださったというのがぼくの実感です。
その人たちはイエスを求めて、救いを求めて福吉まで来てくださったのですが、その人たちがその過程で、苦しみの中でキリストに出会い、その人と一緒に来てくださって、福吉伝道所というところは、一緒に来てくださったそのキリストに、ぼくたちのほうが出会わせてもらってきたんです。
ですから、ぼくは礼拝というのはそれの吟味だったなと思うのです。聖書にそう書いてあるし、聖書のことがそんなふうに起こったのです。というふうに確認しながら言わせてもらった。福吉伝道所には何もなかった。誇るべきものは何もないのに、次から次にというのは語弊がありますが、重荷を負い、苦しみを負い、そして来た人たちが、キリストを背負ってきてくださったというふうに思うのです。そうなのではないかと福吉伝道所46年の歴史の中で思っています。
ですから安全は私たちにはない。だってキリスト教は、あるいはキリストは、私たちに、古い自分に死になさい、新しくなりなさい、と言っているのです。古い自分を安全だと守ってもそこからは平和へ行く道はありませんよ。平和はどこにあるんですか。平和は神の国として、わたしと共に来た。平和は既にあなたの横にあるじゃないですか。苦しんでいる人や悲しんでいる人が、キリストと共にいるじゃないですか。そのキリストと共にいるということに触れたら、あなたはこれまで「安全」として、これはなんとか守らないといかんと一生懸命なっていたことが、あの上甲のおばあちゃんのように、これみんな差し上げます、もう十分ですというようになる。そんなことすら人間って行うことができるという事なのです。
ぼくは、今、教会が存在しているというのは、世が戦争放棄を叫びながら、でも安全保障もしてもらわねば困るというふうに思い込んでいる、私たちの国の同胞たちに、そうではない、という問いかけと共に、平和は安全が保証されなくてもこうしてあるのだと言うことを本当に確認していくことができるような拠点だと思うのです。福吉もそういう小さな拠点だったと思うのです。

小谷純一先生の絶対非戦論

昨日は愛農会の小谷先生の記念会で、たくさんの人が集まられたのです。先生は和歌山の農村で愛農会を始められた人です。先生自身は満蒙開拓団に関わられて、先生の恩師が満蒙開拓団の理論的支柱で、先生もそれに洗脳されて、戦争中でしたが反対することができなかったという痛切な反省から、農業ということと反戦、絶対非戦論というのが先生にとっての新しい歩みでした。それに愛農会、愛農高校、愛農聖研も支えられているんです。
小谷先生の著作集が三冊出されていて、その初期の1951年、敗戦から6年のときに「絶対非戦論」というのを書かれて、それを愛農聖研で学んだのです。その一節にこんな文章があるのです。
「戦争を地上から撲滅する道はただ一つである。戦争は神の御心に反することを自覚する者が、うって一丸となって戦争そのものをなくすために命がけで戦う以外にない。敵を殺すために死ぬのではなく、戦争そのものを地上からなくすために死ぬのである。私たちの命はたった一つしかないのだ。これを一つ棄てたからもう一つ替わりはないのである。たった一つの命をどこに棄てるかということを命がけで探し求めるのが信仰への道である。この唯一つの命を永遠に悔いないところに棄てたいのだ。一度は死ぬ地上の命である。永くても100年と維持できない肉体的命ではないか。この朽ちる命を替えて朽ちざる命の霊的生命たらしめねばならぬ。その道は唯一つ。神の御心に従ってこの命を棄てることである。地上に平和と幸福に導く輝く愛の天国を建設せんとしたもうのが、天地の創造主である、たりたもう神の至高至大の御心である。神の理想を実現するため私どもは一命を捧げつくさなければならぬ。日本再武装絶対反対・戦争絶対反対の非戦主義こそキリスト者の歩むべき唯一の大道である。そのために牢獄にぶち込まれ、銃殺されてもやむを得ない。人類社会に絶対に幸福をもたらすことのない戦争に行って唯一つの生命を棄てるくらいならば、人類社会に平和をもたらす唯一つの道である戦争撲滅運動にこの一命を捧げて悔いないはずである。牢獄の中から、十字架の上から世界人類の平和のために血潮したたる祈りを捧げる人たちが、この人類社会に一人でも増えていくことこそ人類社会から戦争を撲滅し、愛と平和に輝く地上天国を招来する唯一つの道ではなかろうか。私は、今、主キリスト・イエスが十字架を前にして祈られたゲッセマネの祈りの何分の一の真実さをもって、世界人類の真の平和と幸福のために祈るようになりたいと切に切に願ってやまない。」
この文章は大嫌いで読めなかったのです。大体「命を棄てよ」などと言うのは人が言ったらいかんと思っていたんです。それでだまされてきたのが私たちの歴史ですから、小谷先生が1951年の段階で、戦争のために命を棄ててきた人たちはいっぱいいた、その生き残りの人たちに向かって、命を棄てよという。それは、戦争のためではなくて本当に世界平和のために、戦争撲滅のためにというのは、ぼくは恐くて話もできなかったし、今まで話をしたこともなかったのです。愛農聖研でこれを学んでから、今本当に示されているのはこの道ではないかと思います。ぼくは現在74才になりましたけれど、65才以上の人間はどこに命をささげるかというのは本気で考えていかないといけないのではないかと思います。それぐらいのことをしてもなかなかこの安全神話から解放されないのじゃないかなという気はするんです。そういう思いの中で歩みます。

おわりに

さきほどのファネー講演はボンヘッファー28歳のときの講演だと言いました。ボンヘッファーについては鈴木正三先生がボンヘッファーの生涯の素晴らしい総括文章を書いておられます。(『キリストの現実に生きて』新教出版社)ボンヘッファーという人は生まれた時からキリストの現実に生きた人だ。おそらくその絞首刑で亡くなっていった時もキリストの現実、キリストと共にずっと生きたことだろうと語っておられるわけですけれど、僕たちの信仰、つまりキリストが私たちの罪のため、キリストが私たちを贖ってくださった、そのキリストと共に歩むということが、今、私たちに何なのかということを、私たちは小さな拠点として与えられた教会の中で深めていかなければならない、そして決断をしていかなければならないのではないか。
どこまで行っても安全を追及する私たち。安全イコール命なんですね、私たちにとっては。
ある障がいを持っている友人のお父さんが、重い障がいを持っている子供たちと一緒に歩んでいく教会を造りたいと願っていました。彼はこんな話をしてくれたのです。「重い障がいを持っている子供たちは、命と死とが一緒なんです。死の方が大きいのだけれども、それを命という外皮が覆って支えられているので、生きているように思っている。けれどもその命を支えているものはいつでも削られて、だれかが介護してくれなければこの外皮が取り払われるわけだから死がすぐ来る。考えてみたら私たちも一緒じゃないですか」というわけです。
ずっと生きていて死ぬのではなくて、古い自分に日に日に死に、新しいキリストの命を与えられるということを繰り返すことこそキリスト者の生活なのです。本当に生と死が当たり前の、安全といわれる生活の中で、抱き合わせになっている。その訓練を私たちキリスト者として、古い自分が死に、新しい命を与えられて今日を生きるということをさせられていくということが、安全神話に対する徹底的な戦いだと思うのです。
そんなに難しい話ではなくて、私たちの日常生活の中で、今日キリストの命をいただいて生きるということが毎日死ぬことへの戦いなのだということをもっと自覚的に歩ませていただくことができるのではないかと思います。お祈りさせていただきます。

主なる神様 本当に導きによってこんな素晴らしい場所で礼拝を守らせていただく恵みを感謝いたします。茨坪伝道所がどんな歩みをされてきたか、その一端を学ばせていただきましたが、本当にかけがえのないあなたの大きな瞳として守られ、ここにあることを思います。そして今私たちに与えられている大きな課題に対して力むことなく、しがみつくことなく、でも本当にあなたが与えてくださる慈雨、本当にあなたが与えてくださる恵みに日々感謝し、私たちの歩みを進めていくことができるように導きを与えてください。神様どうぞ私たちの国を憐れんでください。そして本当に私たち一人一人がなさなければならない事柄をなしていくことができるよう導きを与えてください。感謝とともに小さい祈りを主イエス・キリストの御名をとおして御前にお捧げいたします。 アーメン (2013.9.29)

【資料】
ボンヘッファーの講演

教会と世界の諸民族 (Kirche und  Völkerwelt)

「わたしは主なる神の語られることを聞きましょう。主はその民、その聖徒に、平和を語られるからです」〔詩85:8〕。ナショナリズムとインターナショナリズムという一対の断崖の間にあって、世界教会キリスト教(Ökumenische Christenheit)は、教会の主とその導ぎとを呼び求める。ナショナリズムとインターナショナリズムとは、政治的必然性と可能性に関わる問題である。しかし世界教会は、それらの事柄に関わるのではなくて、神の戒めを問うのであり、この神の戒めを、結果を顧慮することなく、この世界のただ中に宣べ伝えるのである。
世界連盟は、世界教会に属するえだとして、教会の友好活動のために、平和に対する神の招きのみ声を受け入れ、この命令を世界の諸民族の間で遂行する。したがって、ここでのわれわれの神学的課題は、ただこの戒めを、われわれがそれに従うべき戒めとして受け入れることであって、公然たる問いとして議論すべき戒めと考えることではない。「地には平和」〔ルカ2:14〕――これは問題ではなくて、キリストの到来によって与えられた戒めである。戒めに対しては、二通りの態度決定が存在する。無条件的なひたすらなる服従の行為か、あるいは、「神は本当にそう言われたのか」という敬虔ぶった蛇の問いかのいずれかである。この問いは、服従にとっての恐るべき敵であり、したがって、すべての真正の平和にとっての恐るべき敵である。神は、戦争が、この世界においては、自然法則のように必然的に起こるべきものであるということを知らないほど、人間性についてよく理解されなかったのであろうか。われわれは確かに平和について語るけれども、しかしそれは言葉通りに実際にはあてはめられないということを、神はお考えにならなかったのだろうか。われわれは確かに平和のために働くべきであるが、しかし安全のためにわれわれはやはり、戦車や毒ガスの備えをすべきである、ということを神は言われなかっただろうか。そして恐らくこれが最も真剣な問いであろうが、神は、〈あなたは自分の民族を守るべきではない。あなたは、あなたの隣人を敵の手にゆだねるべきである〉と言われたのであろうか。
そうではない。神はすべてそのようなことを言われたのではない。平和は人間の間に存在すべきであること、われわれは、さらに問うことなく神に従うべきであること――神が言われたのはそのようなことである。従う前に、神の戒めに問題をさしはさむ者は、すでにその戒めを否定しているのである。
平和は存在すべきである。なぜならキリストがこの世界にいまし給うのであるから。すなわち、一つのキリストの教会が存在するゆえに、平和は存在すべきである。全世界は、ただ一つのキリストの教会のゆえにのみ、なお生きているのである。そしてこのキリストの教会は、同時に、すべての民族の中に、そしてしかもすべての民族的・政治的・社会的・種族的なものの限界を超えて生きるのである。そして教会の兄弟たちは、彼らが聞いているひとりの主キリストの戒めによって、共通の歴史や血や階級や言語が人間を結びつけうる紐帯であるよりももっと離れ難い力で、お互いに結びつけられているのである。それらすべての結びつきは、世界内的なものであり、確かに有効なもので、決してどうでもよいようなものではないが、しかしキリストの前での究極の結びつきではない。したがってわれわれは、世界教会につながる一員として、キリストにあって歩み続けようとするかぎり、平和の言葉と戒めとを、自然的な世界の最も聖なる言葉と働きよりも、より聖なる、より破り難いものとすることができる。なぜなら、父または母をキリストのために憎むことのできない者は、キリストにふさわしい者ではなく〔マタイ10:37〕、もしそのような者が自分をキリスト者とよぶなら、それはいつわりである、ということを知っているからである。キリストにあるこれらの兄弟たちは、キリストのみ言葉に従い、疑わず、問わず、平和の戒めを守り、世界にさからっても永遠の平和について語ることを恥としない。彼らは互いに武器を向けることはできない。なぜなら、そのことによってキリスト自身に武器を向けることになるのを、彼らは知っているからである。彼らにとっては、良心の不安と困難とを持ちつつも、平和であるべしというキリストの戒めからの逃避は存在しない。
いかにして平和は成るのか。政治的な条約の体系によってか。いろいろな国に国際資本を投資することによってか。すなわち、大銀行や金の力によってか。あるいは、平和の保証という目的のために、各方面で平和的な再軍備をすることによってであるか。違う。これらすべてのことによっては平和は来ない。その理由の一つは、これらすべてを通して、平和(Friede)と安全(Sicherheit)とが混同され、取り違えられているからだ。安全の道を通って〈平和〉に至る道は存在しない。なぜなら、平和は敢えてなされねばならないことであり、それは一つの偉大な冒険であるからだ。それは決して安全保障の道ではない。平和は安全保障の反対である。安全を求めるということは、〔相手に対する〕不信感を持っているということである。そしてこの不信感が、ふたたび戦争をひきおこすのである。安全を求めるということは、自分自身を守りたいということである。平和とは、全く神の戒めにすべてをゆだねて、安全を求めないということであり、信仰と服従とにおいて、諸民族の歴史を、全能の神のみ手の中におくことであり、自分を中心とした考え方によって諸民族の運命を左右しようとは思わないことである。武器をもってする戦いには、勝利はない。神と共なる戦いのみが、勝利を収める。それが十字架への道に導くところでもなお、勝利はそこにある。もしある民族が――武器を手に持つ代りに――祈りつつ、武器を持たないで、したがってまさにただ最良の防備を身につけて、侵略者を迎えるなら、それが世界にとってどういうことを意味するであろうかを知っていると、われわれのうちの誰が言うことができるだろうか。(ギデオン――「あなたと共におる民はあまりに多い」〔士師記7:2〕。神がここで自ら武装解除をなし給う!)
したがってもう一度言おう。平和はいかにして成るのか。世界がそれを聞き、聞かざるをえないような、すべての民がそのことを喜ばざるをえないような、平和への呼びかけを誰がするのか。個々のキリスト者は、そのことをなしえない――彼は縮かに、すべてのものが沈黙しているところでも、声をあげ、〔平和の〕証しを示すことができる。しかしこの世の力は、無言のうちに彼を押しつぶしてしまうことができる。個々の教会もまた、確かに証しをなし、苦しむことができる――ああ、もしそうするだけなら――。しかし、それもまた、憎しみのカによって押しつぶされてしまうであろう。ただ、世界のすべてから集められた、一つのキリストの聖なる教会の大いなる世界教会会議だけが語ることができる。世界は、歯ぎしりしながらも、その平和についての言葉を聞かざるをえないであろうし、世界の諸国民はその言葉を喜ぶであろう。なぜなら、このキリストの教会は、キリストの名において、息子たちに、武器を手から取り去り、戦争を禁じ、荒れ狂う世界に対してキリストの平和を呼びかけるからである。
なぜわれわれは、この世の力の怒号を恐れるのか。なぜわれわれは、この世界から力をひき抜いて、それをキリストに返そうとしないのか。われわれは、今日、なお、それをなすことができるのである。世界教会会議は集められている。そこでこの根本的な平和への呼びかけを、キリストを信じる人たちに向けることができる。諸国民は、東でも西でも、それを待っている。われわれは、東の異教徒から恥を受けなければならないのであろうか。われわれは、この福音によって生きようと決意している人たちを、孤独のままに見棄ててよいだろうか。時は急を要する――世界は、武器をもってにらみあっている。そして恐ろしいことに、すべての人の目に不信感が見られる。戦いの開始を告げるファンファーレが、明日には吹きならされるかも知れないのである。――われわれはなお何を待っているのか。われわれは、今までにない罪に、自分を加担させることを欲するのか。
王冠も、国土も、金も、名誉も、わたしにとって何の助けになろうか。
そんなものはわたしを喜ばせない。
ああ、戦争が起こる――そしてわたしは願う、
わたしがそのことに加担して罪を犯すことのないように!(M・クラウディウス)
われわれは、この世界に向かって、言葉半分にではなく、全力をこめた言葉を、勇気ある言葉を、キリスト教的な言葉を、語りたいと思う。われわれは、そのような言葉が――今日なお――われわれに与えられるように折りたいと思う。われわれがお互いに、いつかまた相会う時があるかどうかを、誰が知るであろうか。   (1934.8.24)ファネー会議での発題講演

 出典  ボンヘッファー選集6「告白教会と世界教会」 121~126pp

(岡崎茨坪伝道所の野々山彰さんがテープ起こしをし、参考資料を付けて下さいました。心から感謝します。犬養)
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