2014年11月9日 召天者記念礼拝 中井珠恵さんのメッセージ

キリストにあるつながり

ガラテヤ2:15~21
◆すべての人は信仰によって義とされる
 15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。17 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

いまご紹介に与りました愛知国際病院の中井と申します。今日はどうぞよろしくお願いいたします。

実は初めてこの茨坪伝道所におじゃまをしたのは2008年12月7日のことでした。ちょうどその二日前に30年間茨坪伝道所でご奉仕をなさっていた林晃先生がお亡くなりになった週の、明けた主日でありました。今日も皆さんの前でお話しさせていただいていますけれども、手の届く距離に皆さんが居られて、林先生の思いや皆さんの悲しみが手に執るように伝わってきたのを今でも覚えております。

しかし、礼拝が始まって皆さんにお話しを始めてみますと、またちょっと違った感じが自分の胸に飛び込んできたんです。大変近い距離で、皆さんがうなずいて応答してくださる中で、緊張をしながらメッセージをとりついだのを思い出すのですが、その時、林先生はきっとこういう中で牧会を30年なさってきたんだなと思いますと、林先生とは一度もお会いしたことはなかったんですが、牧師としてお幸せな人生を送られたんだろうなと同時にその時思っておりました。

先ほど近藤さんに読んでいただきました「ガラテヤ信徒への手紙」です。この書簡は皆さんよくご存じのとおり、ガラテヤの諸教会に向けて書かれたものとされています。このガラテヤ信徒への書簡の対象となりますガラテヤの諸教会というのがどの地域をさすのかというのは、二つの説があると言われておりまして、一つは中央アジアの地域に位置するという「北ガラテヤ」説、もう一つはローマの属州のガラテヤとする「南ガラテヤ」説です。

いずれかということは議論がいろいろ言われていて、ここで結論が出せないのは残念です。しかしここで一言申し上げるのは、ユダヤ人であるパウロにとってはガラテヤの人々というのが外国人であったと言うこと、これが今日の一つの焦点になるかと思います。

パウロは最初の宣教旅行の時にこのガラテヤの地に立ち寄ったと言われております。ガラテヤの4章の13節を見てみますと、「この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」というふうにパウロは書いています。パウロはここにありますとおり、長旅のせいか体調を崩してしまう。しばらくガラテヤの地で療養をしているわけなんです。その時に随分丁寧にもてなしを受け、治療をうけながら、非常に熱心にガラテヤの人々が自分の話を聞いてくれる中で、宣教活動をしたというふうにパウロは回顧しています。

パウロが人々に話したのは、今日の箇所にも出てきますが、イエス・キリストへの信仰についてパウロは熱心に語った、とパウロは言っています。イエス・キリストへの信仰、そして十字架に掛けられたイエス・キリストによって恵みが与えられるということを、パウロはガラテヤ書の中で、強く簡潔に、そして繰り返し語っている。これがガラテヤ書の概略かと言えるかと思います。

私たちがよく「信仰義認」という言葉を使いますけれども、それが書かれている中心的な書簡であるといってもいいのかも知れません。ではなぜパウロはイエス・キリストへの信仰というものを、ガラテヤの人々に繰り返し強調する必要があったのか。そのことについて語っているのが、今日私たちが読みました15節以下を含む2章全体になると考えられます。

どういうことかといいますと、今日読んでいただきました2章15節の直前、2章14節にはこんなふうに書かれております。『「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」』というふうにあります。これはアラム語でケファ、ペテロに対するパウロの批判であります。このペテロへの批判の言葉から分かりますように、外国人であるガラテヤの人々が、ペテロを始めとするユダヤ人のキリスト者の指導者たちに、ユダヤの律法にしたがった生活をするように勧められていることが読み取れます。 どういうことかといいますと、ペテロたちが、自分たちがユダヤ人であり、食物規定を守っていない外国人と一緒に食事をするのを嫌ったわけです。このようなやりとりがあったことをパウロ知らされて、なぜ自分が立ち去ったあとにそのように自分が教えたことを守らないのか、なぜ律法を守ることによって信仰生活を送ろうとするのか、ということを非常に悩み、そしてやはり「イエス・キリストを信じることこそが信仰だ」と言うことを再び伝えるために、ガラテヤの信徒に手紙を送ったわけです。

しかし今日の箇所を読みながら思ったことは、このガラテヤの人々が律法に従ってしまうのは自然な成り行きではないのかなと思ったわけなんです。人間というのは非常に印象的なこと、衝撃的なことを聞くと、「そうだ、そうに違いない。私はそれを肝に銘じながら生きていかなきゃならない」とその時は思います。

しかし、その場を去って、私の場合ですと仕事に戻り、家庭生活をし、子供とがちゃがちゃやっていると、その大事なことというのはいつの間にか薄れてしまう。子どものことの方が大事なことになってしまって、目の前のことについついとらわれてしまう。だから、何となくあのときの印象は残っていても、何が大切だったかというのはついつい忘れていってしまう。そういう傾向にあるように思います。

チャプレンという仕事をしておりますと、患者さんとの対話が中心になってくるわけなんです。ですから心理学なるものをちょっとだけかじることはあるんですけれども、そこで繰り返し言われるのは、人間の心理というのはうまくできていて、良いことも悪いことも衝撃というものはあるんだけれども、上手にそれを違うものに変えていって、何となく心の中に受け取り易いものに変えてしまう。だから受け取った衝撃がいつまでも残っているものではないというふうに多くの心理学者はいうのです。

そういうこともあって、恐らくガラテヤの人々は、パウロから聞いた非常に劇的なパウロの回心の体験というものをその時は心に刻んだと思うのです。ただパウロが立ち去ったあとに、ガラテヤの人々というのは、だんだんに感動が薄れていったのではないかと思うのです。

そんなとき新たな指導者がやってきて、律法を強要するわけです。律法というのはこれこれこのような定めに従えば救われますというようなもの、定められている生活をしていれば救われるということでしょう。確かに何かの規定に従って生活をするというのは、目に見えるはっきりした物差しがあります。ですからそれを守っていれば大丈夫という安心感が得られるのではないでしょうか。守っていれば大丈夫という物差し、あるいは規定が律法であると思います。

ここでいう律法の執行というのは、一言で言えばユダヤの生活習慣を守ることであります。主だったことは食物規定を守ること。食べるものと食べないものをきちっと分けることです。そしてもう一つは割礼を受けることです。このことはガラテヤ書の中にも繰り返し出てきます。なぜ割礼だったかということです。

旧約聖書をお読みになると何度も目にすることですが、ユダヤ人の祖先であるイスラエルの父祖アブラハムが神さまと初めて契約を結んだときの徴が割礼だったわけです。ですから割礼を受けることによって始めて神さまと結ばれる、神さまに義とされるというのが割礼に対する考え方でした。ただどうやら古代イスラエルの時代はそれほど強調されることはなかったといわれています。

ではいつ頃から強調されることになったか。これは恐らくバビロン捕囚のあとだと言われています。バビロニアから帰ってきた指導者たちは、その当時バラバラに住むことになり、それからバラバラになった先で外国の文化に触れ、自分たちの信じていた神がどのような方で、自分たちとどのように関わっていてくれていたかを分からなくなっていた、そんな人々にもう一度神さまの存在を思い起こさせるために、最初の契約の証である割礼を受けるようにと勧めたわけなんです。

恐らくヤハウェなる神にもう一度結ばれなければならない、という危機感を指導者たちは持っていたのですね。そのような危機感があるうちはよかったでしょう。しかし時代を経るごとに割礼を受けなければ神さまは人々を顧みないんだという考え方に少しずつ変わっていったわけです。そのために「割礼を受けるか受けないか」ということが規定そのものになっていってしまったということです。

こうしていきますと、ガラテヤの人々、パウロの教えを受けたガラテヤの人々、それからガラテヤの人々に律法による生活を強要したユダヤ人のキリスト教の指導者たちの両方に共通する問題があるということになると思うのです。それは、これこそ自分が委ねて信じるものと思っている、その思いを持ち続けることがなかなか難しいということだと思うのです。それよりも目に見える規定を守ったり、規定を守り続ける方がとても楽で簡単だからこちらについつい委ねてしまう。この見える規定、つまり律法に則って生活することに対してパウロは強くノーと言っています。どのように言っているかというと、19節を見てみますと、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」と書いてあります。

パウロは「神に対して生きる」という言葉と「律法に対して死んだ」という言葉をここでは並列にならべて使っております。つまり「神に対して生きる」ということは「律法に対して死ぬ」というふうにパウロは言っているわけなんです。「律法に対して死ぬ」ということは「律法をばっさりと切り捨てた」と言うことになるかと思います。

ただ「律法をすっぱり切り捨てる」という、つまり「律法に対して死ぬ」ということは、普段ホスピスで働いておりますと、死にゆく方々と一緒に生活しております。すると「死」ということが「すっぱり切り離す」ということはなかなか現実的に難しいことだと思います。そのことは大切な方々を見送られてた皆さんはよくご存じことではないかと思います。「死」というのは急に息が止まるということではないんです。

もちろん一瞬でおとずれる悲しい死や別れもあります。しかし多くの場合はそうではない。病気になってくるとだんだん体が弱ってきます。自分で出来なくなることが少しずつ増えてきます。そうすることで、いろんなものを少しずつ手放さざるをえなくなってしまう。それというのは自分の意思で手放すのではありません。そうやって手放さざるをえない状況なんだと思います。その中で最後に残ったもの、それしかない状態、それが死んでいく過程なんだなと思います。

ある患者さんがこんなことをおっしゃいました。

「自分はホスピスで一人で過ごしている。そうすると時間の流れが変わった」というふうにおっしゃいました。ホスピスはすべてが個室です。「どういうことですか」とその方にお聞きしました。すると、「こうなっていると、元気なときはこの季節だとやれ運動会だ、やれクリスマスだといってその時がくるのを待っている。だけど実際その時になってしまうと、その時の楽しみというのはいつの間にかどっかへいって、どうでもよくなってしまうんだよね。元気なときはそういう感覚で、そういう時間の流れで生きてきた。でも、今はね、先に何かあるわけじゃないでしょ。だって死ぬって分かってんだもん。だからただただ自分がそこに寝ているだけ。だけど有線の音が流れていて(病院の中は有線が流れている)、その中で自分を投企している、そんな感じだ」とおっしゃいました。

悲しみでもなく、絶望でもなく、喜びでもなく、そんなふうにポッツリとその方はおっしゃいました。その言葉を聞いて、「あ、そうだな」と私は思いました。時間も人間の決めた規定なんですね。つまり、生きていると何時何時、何があるとその予定を決めて、そのためにそれに従った日々を過ごしている。それを繰り返しながら私たちは日常生活を送っている。

その方にとっても、仕事を辞め、会社の親しい人との出会いも少しずつ減ります。それからホスピスは治療を、これこれどういうふうにするというのが決まっていません。痛みがあるとき、その方の痛みに合わせてお薬をお持ちしてケアをするので、何時という予定が決まっておりません。ですから決まった予定は何もなくなります。その中で唯一決まっている予定はだれにも何時と決められない「死」だけなんです。

その中でその方は「はじめて自分だけになった」とおっしゃいました。一つ一つ、人間の規定によって生きる生き方を手放さざるを得なくなって最後に残ったのは自分だけだったということなです。

ガラテヤ書に戻りたいと思うのですが、19節の後半でパウロは『わたしは、キリストと共に十字架につけられています』といいます。一方に対しては死んだと言った後に、パウロは再び十字架について取りあげるんです。そして今度は、「キリストと共に十字架につけられています」といいます。つまりキリストと共に十字架に掛けられたできごとというのは、「つけられています」とあるように過去のことではなく、現在のこととして言い表しています。つまり「これからずっと律法に従わない」という強い意志がここに込められています。そうして20節には「生きているのは、もはやわたしではありません。」このようにパウロは宣言します。

先ほどお話しした患者さんは、死にゆく中ですべてを手放さざるを得なくて、最後に残ったのが自分だとおっしゃいました。一方で回心のできごとを経験して、自分は律法に対しては死んだといったパウロは、「生きているのはわたしではない」というのです。一見、反対のことをいっています。しかし実はこの患者さんとパウロが正反対のことを言っているのではありません。二人とも生き方を定める規定、あるいは律法から切り離されて、切り離された生活を、つまり生き方をせざるを得ない状態にあるということなんです。その上でパウロは「キリストがわたしのうちに生きておられる」というのです。 つまり生き方を定める律法から離れて最後に残ったのが、パウロにとっては「キリストが私の中に生きておられる」という生き方であったわけなんです。

私はこの患者さんの言葉がパウロの言葉と同じことを言っているんだということは分かったんですけれども、その矛盾というか相対することをどういうふうに自分の中で整理していくか、この一週間まったく分からずにずっと悩んでおりました。今も何となく自分では一緒なんですけれども、どういうふうに言葉の上で説明したらよいかよく分からないで今に至っております。ただ悶々と悩んでおりましたときに、今日のための資料を見ながらのこりの日々を送っていたわけなんです。それで自分の中ですっきり整理できたかというとそうではないんですけれども、何となく腑に落ちたような気がいたしました。

何かというと、この皆さんの文章やご紹介のことを読んでいまして、心にふと浮かんだのは、たくさんの背中だったんですね。

読んでいて、まず、住み慣れた所から息子さんの所へいらっしゃって生活された背中が、まず浮かびました。それからしばらくして女性の方でしたけれど、言わなきゃいけないと思ったらしっかりと言葉に表されているお背中が浮かんできました。それから聖書に真摯に向かいあって、若者や皆さんに言葉を語る背中が次に浮かんできました。

その後は、二度と戦争をしないといって若かった皆さんと一緒に反戦運動へお向かいになる背中が浮かんできました。その次は、看護師さんになることを諦めないと決断なさって、勉強し、看護師とて働いたあとも小さなお体で介護をなさる背中が浮かんできました。

そしてその後に浮かんできましたのは、障がいを持ったことからいろんな人といろんな世界に出会えたとおっしゃるお背中でした。そして次に浮かんだのは、生活に困っている人たちが居られたら居ても立っても居られなくなって、突き動かされるように行動に移されるお背中でした。

それからおそらく娘さんやお孫さんたちをずっと見守ってこられたであろうお背中。それから家族のことを、厳しいご主人と共に、暖かく太陽のように照らしてこられたお背中も私のまぶたに浮かんできました。最後に浮かんできたのは、平和を祈りながら食物の大切さを伝え、そして平和を祈りながら田畑を耕すお背中。その背中も感じました。

こうして多くのお背中が浮かんでくる中で、思いましたのは、どの背中も、今日お話ししましたような、人間あるいは社会の規定には決して向かうことではなく、自分に与えられたもののためにひたむきに生きておられるお姿だなと思いました。そして人生の中で、おそらく、自分にはそういう生き方しかない、あるいはそれをしていなかったらこの世に生かされている意味はないということに出会って、それに従って生きておられるお姿だなと思いました。

この背中の、お一人お一人の背中は、20節の後半でパウロが「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」、そのイエス・キリストの生き方に従う背中であることに気付かされました。そしてお一人お一人の生きてこられた背中を通して私は、「あ、自分がここにあるということは、こうやってキリストに出会って、そのキリストと共に何ものにも規定されなく日々をひたむきに生きることなんだ」ということを、心に留めました。そしてこの方々を通してキリストに出会うことが出来ました。

いまこの世に肉体のある私たちの生活は、やはりすぐに〈人間の定めた規定〉に傾きやすいものだと思います。そのような私たちにとって、こうして天に召されたお一人お一人を思い起こすことはその方々の生きてこられた背中を通してその方の中に生きておられるキリストに出会うことなのだなと思います。 このようなキリストにあるつながりに感謝しながら一言お祈りをいたしたいと思います。

ご在天なる父なる神さま 今日はこのような雨模様の天気となりましたが、こうして敬愛する茨坪教会の皆さん共にこの主日を過ごすことができますことを心より感謝いたします。今日は特に既にあなたのところへ召されて、あなたのところにおられる方々を憶えるためにここに集まっております。そして今このとき、そのお一人お一人がこの世であなたと出会い、あなたと共に歩んでこられた日々を思い起こしています。そしてここに集っております皆さんとともに親しき交わりを持ってこられたことを思い出しております。お一人お一人を思い出すときに、その方々の声を直接に聞けないことを、そしてその方々の姿を直接見たり、触れたりできないことは本当に悲しく辛いことであります。しかしその方々と分かち合ってきたあなたへの思い、そしてあなたを信じて歩んできた道のりは消えることなく、こうして私たちの心に再び思い起こすことを私たちは信じております。そして私たちはあなたを通してつながっており、また再び出会えることを信じております。そのことを胸に刻みながらどうぞ私たちが日々を歩むことができますように。またどうぞ今日ここに集えることができなかったお一人お一人にあなたの顧みがありますようにと切に願います。このときを感謝し、私たちの救い主、主イエス・キリストによってこの祈りをおささげいたします。

                                      
アーメン
 
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