2015年6月21日 名古屋堀川伝道所 島しづ子牧師のメッセージ

ヨナ物語の不思議

ヨナ書1:9~12
 

 9 ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」10 人々は非常に恐れ、ヨナに言った。「なんという事をしたのだ。」人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。 11 彼らはヨナに言った。「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。」海は荒れる一方だった。 12 ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」

皆さんお久しぶりです。今日はヨナの物語、旧約聖書では短い箇所ですけれども、あまりなじみがないのではないかなと思います。私自身あまり注目してこなかった場所なのですが、土岐健治先生の著書「ヨナのしるし」(一麦出版社 2015年刊)を読んで刺激を受けて取り上げさせて頂きました。
 ヨナの物語にはいくつかの不思議なことがあります。ヨナという人物が活動したのは、ヤラベアムⅡ世という非常に悪い王様の時代で、紀元前800年から700年の間にヨナは活躍したのです。そのヤラベアムⅡ世という王様は41年くらいイスラエルを統治しまして、あまり良い王様ではなかったのです。神さまに背いてばかりなのですが、神さまはヤラベアムを通してイスラエルの民を外敵から守ったというふうに列王記下14章23~27節に書かれています。面白いと思うのは、悪い王様でも神さまの意志で国民を守るはたらきをしていたということなのです。
 その頃、イスラエルにとって脅威だったのは、前934年から609年まで続いたアッシリアという国でした。アッシリアはニネベが首都だったのですが、ここの町がいかにひどいかということを書物から紹介します。
 「敵国の町を攻略するとそれを焼き払い、その上すべての青年男子の捕虜の手と耳を切断し、目をくりぬいて痛めつけた。それらの人々は山のように積み上げられ、日差しと灰と傷の痛みと窒息の責め苦のうちに死んでいった。子供たちは男の子も女の子も生きながら火あぶりにされ、首領はアッシリアまで連れ去られ、生きたまま皮を引き剥かれた。」
 こんなふうに、もちろん近代でも戦争によって捕虜や敵を痛めつけるということはあったわけですが、紀元前のアッシリアがこんなとんでもないことをしていたわけです。そういう国に行って、ヨナに神さまが、「アッシリアのニネベの人たちが悔い改めるように言いなさい」というふうに言うわけです。こんなひどい人たちに「悔い改めてこのままでは滅びますよ」と忠告を与える必要があるのかということも不思議なことです。ヨナはこの命令には従いませんでした。
 アッシリアというのは地図を見ると、内陸になります。彼は命令に背いて地中海の海岸の方に行って船に乗ります。そして彼が乗った船が難破しかけます。その船に乗っていた人たちはほとんどが、ヨナからすれば異邦人です。1章5節で「船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ」とあります。船乗りや、船長はなぜ、自分たちが遭難するような目に遭わなければいけないのだろうということで、荷物を減らしたり、彼等の神さまに祈ったりするわけです。
 ヨナはどうしたかというと、船底に降りて寝込んでいました。船長がヨナの所に来て「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」と言います。ヨナは9節で「私はヘブライ人だ。海と陸を創造された天の神、主を畏れる者だ。」と見えを切りますが、立派なことを言うわりには、神さまの命令にも従わないで、船に乗って、その船が難破しそうだということになってしまうわけです。
 くじに当たったヨナは「どうしてあなたはこんなところで、そして、船が難破するということはどういうことか」と問われ、自分のことを白状します。自分が神さまの命令に背いて船に乗ったものだから神さまが怒っているのだというわけです。面白いのは、「なんという事をしたのだ。」と、イスラエルの神さまを知らないはずの人々がヨナに対して言っているのです。神の目を避けても、どこにも逃げ場所などないのですから。そして人々はそれでも難破しないように努力をするのですが、どうにもしようがなくて、海を静めるためにヨナを海に投げ込むという決断をするのです。
 これも簡単に読むと、自分たちが助かるためにヨナを海に投げ込むなんてなんてひどいことだと思うのですが、この行為をする時に彼等は「主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」と祈っています。できたらしたくないけれどやむを得ないことなのですというふうに言ってます。ヨナは自ら飛び込むということはしないで、苦闘し、ヨナを海に投げ込むことにも躊躇している人々によって海に投げ込まれるわけです。

子どもたちにも聞いて欲しいんですけれど、皆さん「ゴジラ」って知っていますか。ゴジラという怪獣。あれはクジラとゴリラを合体させた名前だそうです。
 私は前にクジラの生態を撮影した映画を見たことがあるのですが、クジラたちが協力して輪を作るのですね。みんなで輪を作って、段々輪を縮めていくと魚たちがその輪の中に追い込まれるわけです。そうするとクジラは大きな口を開けて、それぞれ魚を飲み込むんですね。小さい魚にしたら大変なのですけれど、クジラって賢いなと思いました。輪を作って、段々縮めていって、一気にそれぞれが大きな口を開けて魚を飲み込んでいくわけです。
 ヨナは海に投げ込まれてどうしたかというと、クジラと思われる大きな魚のお腹の中に飲み込まれました。三日三晩、飲み込まれたらすぐ死んじゃうと思うのですが、ヨナは助かったのですね。おそらく真っ暗闇だと思うのですけれど、その中で「神さま、助けください」とすごく都合のいい話ですけれど、一生懸命お祈りしました。「私はもう一度あなたに会いたいし、故郷にも帰りたい。どうか助けください」。お祈りがきいたかどうか分かりませんけれど、ヨナは大きな魚によって、陸にぽいと吐き出されたのです。助かったのです。
 この三日三晩というのを、先日堀川伝道所で話したときに、三日三晩は72時間になる。人間が飲んだり、食べたりしないで生きる限界が72時間、三日三晩だということで、おそらくヨナも限界、もう生き延びられないのじゃないかというところまでいって助かったのだと思うのですね。
 彼はそのことがあったものだから、これはもう神さまの命令に従わなければいけないと思って、3章では、ニネベの町に行って、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」と預言します。あんまり一生懸命やったとは思えませんが、イスラエルの神さまを信じていない極悪非道なアッシリア、しかもその象徴であるニネベの人たちが、みんな悔い改めたというのです。良いことですよね。
 でもヨナは気に食わなかったのです。神さまが言えっていったから自分は言ったけれども、4章を読むと、ヨナの不満そうな様子が書かれています。外国人がこんなに簡単に悔い改めて滅びから逃れるなんて面白くないと思ったのでしょう。
 彼は小高い丘に登って、ニネベの町を見下ろしながら、ぶつくさ文句を言っています。暑い日差しだったみたいです。その時に神さまが彼のために、とうごまの木を生やしてくれて、陰に入って彼は暑さをしのいだわけです。でも翌日にはとうごまの木が枯れてしまいました。また、ヨナはぶつぶつぶつ文句を言うわけです。そのとき神さまは「あなたはとうごまのことで文句を言っているけれども、私にとってニネベの人たちは大事な人たちだ。私は都ニネベの12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜が惜しい」言って、この物語は終わるのです。

いろいろこの物語の不思議さというものはあるのですけれど、このヨナ書が書かれたのは紀元前400年から200年くらいの間と言われています。つまりアッシリアが全盛であった、ヨナが活躍した時代の200年か400年後に書かれた書物なのですね。ニネベはその頃すでに滅びています。アッシリアは紀元前612年にニネベが陥落して、アッシリア帝国は610年に消滅しているのです。つまり面白いと言うのは、ヨナ書を書いた著者はアッシリア、ニネベの人たちが決して悔い改めなかった、そして滅ぼされてしまったということを知っているのです。にもかかわらず、ヨナの物語の中で、ニネベの人たちが悔い改めたという話を書いているわけです。
 この物語の中にいろいろな不思議なことがあるのですが、イエスが活躍していたときに、マルコによる福音書で、「天からのしるしを求めて議論をしかけた(8:11)」という箇所があります。「そう言うあなたが天から来た救い主だったらしるしを見せろ」と言ったわけですね。そうするとイエスは「はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」。
 この聖書の箇所をマタイとルカは、イエスがしるしを与えられないと言っているのは、どういうしるしのことを言っているのかな、と考えたのだと思うのです。マタイは、ヨナのしるしのことを、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる(12:40)」と言っています。イエスが金曜日に受難して、三日目の日曜日に助かったという。ですからマタイは三日三晩、大地の中、つまり死の国にいるイエスがよみがえる、それがしるしだと解釈したのではないかと思うのです。
 それからルカによる福音書には、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない(11:29)」と言いまして、「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる(11:30)」と書いています。このマタイもルカも、ニネベの人たちは異邦人、外国人です。神さまに背いていた人たちでした。
 ところがニネベの人たちはヨナの説教を聞いて悔い改めたというふうに解釈しております。つまり外国人が悔い改めるということが、マタイやルカはしるしとして理解した。それからルカでは、ソロモンのところに相談しにやってきた南の国の女王のことも話しておりまして、「南の国の女王やニネベの人たちがあなた方のことを情けなく思うであろう」というふうに、イエスに敵対し、しるしを求めている人たちに言っているのですね。それで、ヨナに優る者がここにあるというふうにイエスに言わせています。
 不思議だなと思うのは、神さまに忠実なイスラエル人こそが救われるというふうに考えていたであろう時代に、異邦人が悔い改めるということは想像できなかったと思います。それに対してヨナ書を書いた人は、ニネベの物語をわざわざ書き記して、そうじゃないよ、イスラエルの人だけでなく、話を聞いた外国人も、むしろイスラエル人よりも即座に悔い改めるのだ、と言っているのだと思うのです。南の国の女王もソロモンに対して相談にやってきて、イスラエルの神さまを信じた。悔い改めた。
 そしてこのニネベの物語やソロモンの物語以上に、ヨナに優るイエスがいることをこの福音書を書いた人はイエスに言わせているわけです。

この書物の不思議なところをこれからもお話ししていきたいと思いますが、海の大いなる獣というのが、神さまが天地万物を造られたときに、生きているものの中では一番先に造られました。光を造ったり、海を造ったりして、神さまが「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て良しとされた(創世記1:21)」。生き物としては、大きな怪物が最初に造られて、しかもそれは善き物として神さまに祝福されたと言っているわけです。この怪物が、ヨナの物語の中では、ヨナをお腹の中に三日三晩閉じこめた怪物でした。
 大きな怪物と言われているものは、ほかの聖書の箇所にいきますとレビヤタンとかいろいろな呼び方をされていくのですが、ドラゴンともいえます。中国の人たちは、韓国もそうですが、龍のことを幸せの象徴のように言って、ドラゴンを大切にしますし、たぶん名古屋のドラゴンズもそこから来ているかなと思うのですけれど、龍というのは祝福の対象でもありながら、実は神さまに背いて悪いこともするということもあるわけです。ダニエル書やヨハネの黙示録では、大天使ミカエルが竜の怪物を足で踏みつけるという表現があります。始めは善き物に造られたものが、どういうことか悪い者になってしまう。このヨナ書を書いた人は、私の想像ですが、大いなる怪物、それはゴジラのようなものを想像しても良いのですが、実はヨナを死に至らしめるひどい怪物であるわけです。悪の象徴です。ヨナはニネベという首都を持ったアッシリアという国に飲み込まれたのではないかと思います。暴虐無尽なアッシリアにヨナは飲み込まれてしまった。しかしそこから三日三晩の後、彼は吐き出されて助け出された。とても不思議な物語だと思います。

イエス様が三日目に復活したというのもとても不思議な物語です。おそらくヨナが生還したように、イエスの生と死を見聞きした人たちがヨナのこの出来事と照らし合わせて、イエスもまた三日三晩の後再生するのだということを福音書の中で語りたかったのではないでしょうか。それがヨナのしるしの一つではないかなと想像するわけです。
 例えば洪水を生き延びたノアの物語があります。モーセに率いられて紅海を渡ったイスラエルの民の話があります。そしてヨシアに導かれるイスラエル民族は、とうとうと流れるヨルダン川を渡るとき彼等の足下の石が水を止めてくれて無事に渡ることができたというふうにいっています。みな奇跡的な生還の物語です。
 ところでヨナの物語は、しばらく皆さんと学んでいきたいなと思うのですが、旧約聖書の中で、預言者たちはみんな神さまからの命令を聞いて、自分は実現することができないというふうに断ります。すべての預言者がそうです。しかし、やむを得ず従っていって神さまのお仕事をするということがありました。ところがイスラエル信仰を公言するヨナが、このヨナ物語の中では異邦人である船員たちから、お前の神さまに祈ったらどうかと言われたり、お前の神さまにあなたはなんてひどいことをしたのかとか、本当にある意味では預言者たる面目が全然立っていない。そういう有様です。
 それはある意味では、このヨナ書を書いた人たちの周りの状況というものが、〈イスラエルこそ神さまに祝福され救われる対象である〉、〈そして預言者は決して間違えることなく神さまの命令を伝え忠実に果たすのだ、異邦人が救われるなんてあり得ない〉、そういう考え方の中にあって、このヨナ書を書いた人たちの中には、〈預言者も間違えることはある〉、〈そして異邦人だからと言って必ずしも神さまに出会ったり、信じないわけではない〉〈イスラエルの神を信心することはあるのだ〉、ということを、当時の、あるいは今の宗教的な常識に対してチャレンジしているのではないかなと思います。
 ヨナは2章で、魚のお腹の中で、それまでとは打って変わって、ふてくされているようなところも見せないで、この場所から救われていくようにと祈っています。そして3章では彼は、どん底のどん底から生還したということを記しております。
 このヨナは2章で、腹の中で、いわば絶望のどん底で祈った祈りが「陰府のそこから、助けを求めると/聞いてくださった(2:2)」というふうに彼は言います。この聖書の箇所をよく読んでみますと、海の中というのも暗いですね。その魚のお腹というのも真っ暗闇です。しかもこのヨナの言葉はもっと深い海に投げ込まれて、深淵に自分は追い込まれたと言っています。つまり、どん底のどん底まで自分は落とされて、助かる見込みはなかったということを彼は言っているわけです。
 しかし彼は助かりました。神さまが彼の叫ぶような祈りに応えてくださったということです。

友人にキリスト教界に嫌気がさしてキリスト教を止めたという人がいます。残念ながらほとんど音信不通なのですが、先々週にある所で再会したのです。お互いに世間話した後で、「先生まだキリスト教を信じているの」と言われました。私は、「キリスト教は信じていないと思う。キリスト教というのは歴史的にも組織としても必ずしも良いことばかりじゃなかったし、間違いも多かったから、キリスト教は信じていないね。でもイエス様のことは信じているね」と言ったのですが、分かっていただけなかったと思います。
 イスラエルの人たちにとっても、また私たちにとっても、信仰を持ち続けていく苦労の中で、この群の中にいない人だとか、あるいは敵対的な人たちのことを受け入れたり、その人たちの救いを信じて祈ったりすることはあまりないのではないでしょうか。
 でもこのヨナの物語は、ひどいアッシリアの人たちも救いの対象であった。私たちが人間的な、勝手な基準でもって、〈この人は救われる〉、〈この人は救われない〉というふうに枠づけていくということに対して、このヨナの物語はそうじゃない、ということを語り続けているのではないかと思います。そしてヨナがあの怪物である魚のお腹の中から救われたという出来事、ヨブもそうなのですが、最後が万々歳だから救われたというのはあまりに幼稚かなと私は思います。
 もしかして、魚のお腹の中で息絶えるという運命もあったかも知れない。そうでなければ、この地上の非常に多くの善人たちが、苦しみ滅びにさらされているということを私たちはどのように理解したらよいか分からない。信じるというのは、自分自身やあるいは愛する者たちが、どのような境遇におかれ、どのような苦しみや悲しみの道を歩むとしても、神さまが主導権を持っておられるということを信じていくことではないかなと思います。お祈りをいたします。

神さま 久しぶりにこのところに来させていただき感謝いたします。またそれぞれが慌ただしい日常から、このところに集まってともに学び、ともに語り合うときを与えられ感謝いたします。
 神さま、私たちの愚かな、小さな器では捉えきれないあなたの恵み、あなたのご計画を思います。どうかヨナが必死でお腹の中で叫んだように、私たちもまた結果がどうであろうとも叫び懇願するあなたが居てくださるということを思い、心から感謝いたします。また世知辛い世の中にあって、信仰を同じくしともに支え合うこのような共同体が与えられていることを心から感謝いたします。それぞれの中にある思いをあなたが聞き届けてください。また人間の過ちのためにひどい困難にさらされている愛する人たち、特に幼子たち、あなたが守ってくださいますように。

この時を感謝し、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。 アーメン 
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