名古屋堀川伝道所 島 しづ子牧師講演

すべてのいのちを守るために

―なぜ沖縄は「全基地撤去」を叫ぶのか?―

辺野古新基地建設の始まり

 辺野古新基地建設の始まり
 (地図を見ながら)辺野古というのはここに位置します。今話題になっている髙江というのはこの広大なヤンバルの森と言う所になります。普天間基地はこの下の方にあるんですけれど先ほど犬養さんが演じてくださいましたように、市の真ん中に普天間基地があって、爆音や危険性があるということで、1996年にこれを辺野古の方に移設しましょうという話になりました。辺野古に住んでいた方々、全国から集まってきた人たちがこのあたり(辺野古の港)へ小屋やテントを建てて、新基地建設反対という、辺野古移設反対という運動を始めました。  はじめ私が行った時には、小さなテントがありまして、いつも毎朝組み立てては夕方には撤去するというふうで、一つのテントがあれば十分人が入れるという感じでした。もうひとつの小屋は木造で「命を守る会」、特にお年寄りの方々が守っておられました。今はその小屋は無くなりました。
 大雑把に言うと、沖縄でも限られた人たちが座り込んで新基地建設させないぞという運動をしていました。辺野古でも賛否両論で住民の方々は複雑な思いだったようです。そのうちに建設が具体化して、海のアセスメント調査などの為に港から、船が出るようになりました。沖合には巨大な船体も来ました。それを阻止するためにカヌーや船が出て、海底の調査を阻止するために潜水をする人たちも必要になりました。多くの友人たちが潜水する資格を取って潜ったり、カヌーに乗り調査の為に組まれたやぐらを囲んだりしました。
 沖縄防衛庁はこの海へ幾つかのやぐらを建てて調査をしやすいようにしたんですね。建設反対の人々はやぐらに登って一日そこで待機しながら、お弁当は船に持って来てもらったりしてました。やぐらの周辺には他の人が、カヌーで囲みながら工事をさせないたたかいをしてました。やぐらから引き摺り降ろそうとする防衛庁側の工事担当者と必死にしがみつく人々との攻防戦はながく続きました。潜水しての調査にも同じように潜水して調査を止める。こんな苛烈な素朴な抵抗運動で、政府はここで工事を進めることができなくなったわけです。 そしてこの辺野古での新基地建設の計画が変更されながら、今度は大浦湾の広大な提供水域に巨大な基地を作ろうとし始めました。その時に海に大きな浮き袋を張り巡らして、ここから入ってはいけませんよとして民間の船やカヌーの出入りを禁じました。
 とてもきれいな海にこのオレンジ色の連なった浮輪が見苦しかったです。また工事が始まるということから、ボランティアの人たちが船を出し、カヌーを出し、勝手に入るなと決められたところを乗り越えて、調査や基地建設を止めようとしてきたわけです。このために、国にとっては大幅に基地建設が遅れることになりました。一方、オール沖縄の意志を受けて、翁長雄志沖縄県知事が前任の仲井眞知事が承認した「新建設承認」に瑕疵があるので取り消すという判断をしました。このために困った国との間で裁判になったわけです。

キャンプ・シュワブゲート前の抗議行動

 海を埋め立てる工事の為に、この機材を入れたり、材料を入れたりする入口がキャンプ・シュワブというゲートでした。このゲート前から工事車両も作業員も入れないぞということで、市民たちが辺野古の港だけでなくてキャンプ・シュワブのゲート前にも座り込みをするようになりました。その時に私は山城博治さんという人を知ることになりました。
 山城博治さんと最初に会ったのは5年ほど前だったと思います。その頃は髙江の方はそれほど工事が進んでおりませんで、比較的余裕があったのでしょうか、ほんとにわずかな人たちが座り込んでいました。私は神学校の同窓生、堀伝のメンバー10人位で沖縄の各地を回り、髙江に案内されました。そこにいた山城さんが、「あなたたちクリスチャンだったらここで歌を歌ってくれないか」と声をかけて下さり、一緒に「ウイ・シャル・オーバ・カム」を歌って、高江のゲート前で反対行動をして帰ってきたのが山城さんに会った最初でした。
 その後、キャンプ・シュワブゲート前から大幅な工事が進められていくということになりまして、キャンプ・シュワブのゲートを固めるということが大事になりました。山城さんはゲート前にテントを立てて、寝泊まりし始めました。もちろん山城さんだけではなくて大勢の人たちが代わる代わる、工事を進めさせないというふうにして座り込み、1年ほど経った時に、この座り込み、工事を止めるということは沖縄県全体の運動になりました。
 ある時には2000人、3000人という人たちがゲート前に集まって、もう基地は作らせないぞと島全体のたたかいになっていったんです。でも工事は進められていきました。反対する人々が増えるほどに機動隊も導入されていって、本土からの機動隊まで動員され始めました。 どうやってこのたたかいを続けていったらいいか、少しでも工事を進ませないようにしようということを考えて、山城さんや多くに人たちが考えたのが人海戦術だったのです。以前はこの辺野古の浜辺に大勢集まったとしても100人単位だったと思います。このキャンプ・シュワブのゲート前でも最初は50人位であったと思います。ですから簡単にアルソックや機動隊に排除されて工事車両が入ってしまう。でも座り込む人が100人、200人、300人になれば、工事を遅らせられるということで、週2回位、全県に呼びかけ、本土にも呼びかけ、皆さん集まってくださいというふうにして、大勢集まるようになりました。これが大きなたたかいになりました。

 私が次に行った時に、山城さんが悪性リンパ腫になりました。その前に口内炎で物が食べられないんだと言っていまして、これは良くないなと思っていたら、病気を発病して前線から離れることになったんです。リーダーを失ってどうするんだろうと思ってましたが、大勢の人たちが山城さんに代わって、月曜日は誰、火曜日は誰というふうにして毎日だれかが責任を持って、キャンプ・シュワブ前のゲートの工事を止めるリーダーになりました。結果的には、政府はここでは工事を進められないということで、裁判を取り下げざるを得なくなりました。

 キャンプ・シュワブ前のいくつにも張られたテントに行くと、皆さんがとても優しいんです。「よく来てくれた。今度いつ来てくれる?待ってる? 何か考えていることがあったら話をしてくれませんか。」と話しかけてきます。まるで教会へ行ってもてなされているような感じなんです。「あなたは本土の人間だからだめだ」とか、「ずっと居てくれないからだめだ」と、いうんじゃなくて、そこに来た一人一人の思いを語らせてくれて、「また来てくださいね」と言う。そういうことがあって、参加しやすくなっていきました。明らかに18年前と変わったのは、沖縄全体からの参加者がものすごく増えたということです。島ぐるみ、村ぐるみでバスを仕立てて、現地に来たり、村、町、県の議員団まで来るのです。本土からも個人、10人前後の団体が来ていました。面白いのは現役を退いた私のような年代の人が現地で暮らしながら参加している人もいました。
 いまも、新しい基地を作らせたくないという一心で、みんな通っているんです。私68歳なんですけど辺野古へ行くと若いんです。70,80歳の人が普通で、「68歳でもう年なので」なんて言うと、「何を馬鹿なことを言ってるんだ」という感じなんです。
 座り込んで機動隊とやり合う時も、杖を突いた方とか心臓の持病を持っている人とか、こんなところにいらっしゃらない方がいいんじゃないかと正直私は思うのですが、実はそれもたたかいかたのひとつですね。でも実際、機動隊と衝突があった時に、救急車を呼ぶことがあるんですよ。内臓疾患で倒れたとか怪我をしたとか。でも皆さんはめげないんです。
 石原艶子さんという友人は「島さん、ここに来るとみんな元気になるの。たいした病気でない人は治っちゃうの」と言うのですね。それぐらい自分の気持ちを発散する場所があるというのは、みんなを元気にしてくれている。そういう人たちが参加しやすいようにということで、那覇からバスを出したり、宜野湾からバスを出すようにして、決められた日に、例えば週のなかばの水曜日に500人以上に人が集まったら、その人たちを排除している時間が掛かってしまって、もう工事の人たちはあきらめるということがありました。そんなふうにして多くに人たちが参加して、このたたかいは続けられました。

高江のヘリパッド建設の強行

 7月10日の参議院選挙で、沖縄の伊波洋一さんが現職だった島尻安伊子大臣を破って大勝しました。伊波さんはオール沖縄の意志を受けて「新基地建設反対」を明確に打ち出して議員に選ばれたのです。これは沖縄の人たちは新基地建設に反対だという意志を明確に示したことです。
 ところが翌日11日に、髙江に大勢の機動隊が入っていって、ヘリパッド建設を始めようとしました。7月11日から今日まで大勢の機動隊員が導入され、反対する人たちの必死な抗議には全く耳を貸さない状況です。私なんかですと那覇からバスに乗って、名護まで行って約一時間強、名護から髙江まで一時間強という、1日に何本も無いバスに乗って駆けつけなければいけないわけです。
 ですから沖縄の人にとっても髙江に駆けつけるということは容易いことではないんです。でもキャンプ・シュワブ前でたたかった経験、そしてそのことを大事にして皆さんがここでもたたかっています。(10月22日現在、ヘリパッド用地の森林が伐採されて豊かなやんばるの森が泣いているような様相です。しかも、むちゃくちゃな理由で山城さんや本土からのY牧師が逮捕されています。)急を要する状況の高江です。

ゴスペルを歌う会

 私が出会った友人たちのことをお話ししたいと思います。
(画面を見ながら)
 これはオスプレイが普天間基地に配備された後に、超教派のクリスチャンたちが、毎週月曜日にゲート前でゴスペルを歌おうと呼びかけ、今も続いています。この方はバプテスト教会の牧師さんです。このフェンスはこれまでなかったんです。でもゴスペルに集う人たちが多くなったので、邪魔するような意味でこれが立てられました。この奥が普天間基地です。これが立てられてしまって、この歩道というのは1メートル位しかないんです。こっちの側は道路になっています。そんな所で、月曜日というと雨が多いんですけれども、みんな傘を差しながら、マントを着ながらゴスペルを歌っています。これがその時の様子です。寒そうな格好をしているので12月かもしれません。 この人たちが「丁度島さんが来ている時でよかったね」と言ってくれて、この方がリーダーの先生で、このお二人は教団の石川教会の牧師で宇佐美夫妻です。(今は四国の方に行かれました。)この方は久保礼子という私の神学校時代の友人で、神奈川で開拓伝道をしてましたが、その教会を辞任して沖縄に行っております。この方はバプテストの教会の牧師さん、この方はカトリックの信徒さんです。こんなふうにして、教派を越えてゴスペルの集いを続けておられます。
 この方はご存じの方もいるかもしれませんが、西尾市郎牧師です。私の同窓生です。2012年の9月29日30日に普天間にオスプレイの配備がされました。野立ゲートとか佐眞下ゲートとか、人々が車両や自分自身が座り込んで基地の出入りを封鎖したんです。その時に座り込んでいる人たちを機動隊が排除して、道路の片隅にフェンスを張り巡らしてそこから出られないようにしました。炎天下でした。トイレに行きたいと言っても、水を飲みたいと言っても自由に出してくれなかったんです。身体を拘束されているような感じです。西尾牧師もそういうふうにして炎天下で長い間時間が経ったせいなのか、翌々日脳溢血で倒れてしまいました。困難な闘病生活を経て、私が5年前に行った時には、病院から抜け出して車椅子で講演先に来てくれました。今は元気になって仕事をしています。彼は倒れる前まで、本土からいろんな教会の方やグループが見学に行くと、沖縄中の基地を巡って、どういう問題があるかということを話をしてくれたんですが、今は牧師という仕事と保育園の園長の仕事で精一杯です。大きな犠牲を払わせられたと思います。
 この方は島田善治牧師で、日本基督教会の宜野湾告白伝道所の牧師です。普天間爆音訴訟原告団の団長。この写真はキャンプ・シュワブ前ゲート前の座り込みに行ったときのものです。水曜日でかなりの人数が参加していましたので、私は島田牧師と一緒にゲート前に続く道路に座って抗議行動しました。歩道にいるだけでも機動隊員が私たちが工事車両の前に飛び出さないか、ひとりひとりの護衛のように立っています。大勢の機動隊員をゲート前から離しておくのも作戦のひとつなわけです。この時、座りながらお話ししたら、「沖縄タイムスと琉球新報をとにかく読んでください。そうしないと私たちの課題は分かりません」と言われました。

 この後ろ姿の人たちは、日本山妙法寺の僧侶たちです。辺野古に一人の僧侶が住み着いていて、朝キャンプ・シュワブのゲート前の攻防戦が始まる前から太鼓をとーん、とーんと叩いています。それがとても心穏やかになるものですから、「和尚さん、この太鼓の音とってもいいですね」と言いましたら、「あなたも何もしないんじゃなくて、機動隊員に少しお話しされたらいかがですか」と言われました。困ったなと思ったんですけれど、言われたまま、私の前にいる機動隊員に聞こえているのか聞こえていないのか分かりませんが、「あなたたちも本当なら過激派とか、凶悪犯とかを取り囲むんでしょうに、こういうおじいちゃん・おばあちゃんを取り囲んでも本当に意味がないでしょう。おかしな仕事していると思わない」とか言いながら、話しました。彼らは全く反応しませんが、中にはこちらの情報を知りたいのか、話に乗ってくる人もいました。
 この和尚さんたちの中には韓国の済州というところに住んでいる人とか、成田闘争の場所にいる人たちも居て、それぞれの体験を皆さんの前で語って下さいました。

 これはキャンプ・シュワブ前の早朝行動なのですが、私は名護に泊まりますと、5時20分のバスに乗ります。5時20分のバスに間に合うためには5時前に起きて、バスに乗って20分位で此処に着きます。まだ暗い内です。みなさん、いろんなところから集まってくるんですが、車を運転してくる平良悦美さんは、3時位に起きて毎朝駆けつけて来るのだと言っていました。これはまだ攻防戦が始まる前の時間です。
 これは今年の5月に山城さんが名古屋に来てくれたときの写真です。  この方が山城さんですが、悪性リンパ腫を発病されて、半年位の治療をされて復帰されました。今でも週1回の通院は欠かせないそうですけれど、現場に来てずっとたたかっています。今は髙江のほうが非常にあぶない状態になっているので、多分山城さんは沖縄を離れることができないと思います。
 これはキャンプ・シュワブゲート前です。昔はこんなもの(フェンス)も車もありませんでした。この部分に工事に反対する人たちが座り込んだり、ブロックを積み上げたりしたので、このカマボコが配置されて市民が座れないようになっています。で、ここに3台車が並んでいます。工事の車両が来ると、この真ん中の車両を移動するのに、狭いので切り替えしながら、10分位かかるんです。 私たちがここで座り込んで、反対していると、機動隊員が排除に10分位かかるんです。ですから笑ってしまいますが、互いに向こうもこっちも知恵を出しながら攻防戦をしておりました。
 これはまだ裁判の和解のときで、比較的キャンプ・シュワブ前のテント村が穏やかだったときです。そんなときは皆さん、辺野古大学と言って、専門家を呼んできて、基地のこと、工事のこといろんなことを勉強するんですね。石原艶子さんです。いろいろ親切に教えてくれます。そして一人で来た人が孤独のうちに帰る事の無いようにと互いに配慮しあっているのだと話してくれました。

 これは日蓮宗の和尚さん。あとでまたご紹介します。 この方はお名前を存じ上げないですが、身体が小柄なものですから、車の下に潜り込むんですね。私は本当に危険だなと思うのですけれど。向こうもさすがですね。車の下に茨線を張って、入れないようにしていますけれど、彼女は上手に下に潜り込むんです。すると車は動けませんよね。良い戦いなのですけれど、すごく危険です。「私は小柄だからこれができるのよ」と言いながら、こんないい顔をしています。 ここでは基地は作らせたくないという一心で、あなたの思想は何だとか、あなたの所属は何だとかいうことは全然関係なく、仲良くなって、こうしてたたかえます。
 これはご存じかと思いますが、知花昌一さんです。1948年生まれで、読谷村のご出身で、チビチリガマという所に近い場所にお住まいです。1945年にこのガマで84名の方が集団自決を強いられました。その村で、1987年に沖縄国体が開かれ、これも沖縄の人たちには開催に反対していましたが、開かれてしまい、読谷村ではソフトボール大会が開かれ、開会式が行われました。国体ですから日の丸が掲げられるわけです。その時に知花さんはこの日の丸を引きずり下ろして焼きました。裁判に掛けられ罪に問われました。それだけでは済みませんで、知花さんが経営していたお店が放火されたり、集団自決のあったチビチリガマにあった平和の像という像が破壊されたりして、大変ひどい目に合われたんです。数年前に真宗大谷派の僧侶になりました。(ここに何人かのクリスチャンがいらっしゃると思うのですが)知花さんが僧侶になったと時に、クリスチャンの友人が私に「牧師たち、だらしなくない?一緒に運動してきながら誰一人として彼をキリスト教に呼びよせられなかったって情けないわね!」と言われました。本当に情けないですけれども、大谷派のほうが良かったと思われます。にこやかにしていらっしゃいますけれども、とても苦労をなさいました。
 これは沖縄の人ではありませんが、教団の菅沢邦明という神戸の西宮公同教会の牧師で、一緒にいらっしゃる方は神戸の方々です。私が行ったときに彼らも来ていて、この方たちは名護市の教団の教会に寝袋持ち込んで泊まり込みながら、1か月に1度位ゲート前などに参加しているそうです。
 石原昌隆さんです。愛農高校で教師を長くし、西表島で西表平和村の活動をなさり、高校生の平和研修旅行の受け入れたり、旅人の受け入れをなさってこられました。今は石川の方にお住みになっていて、何年か前に病気をなさって、しばらくぶりに現場に来られたそうです。膝などの不調でいつも椅子を持ってきて、座り、看板を掲げて「ヤンキー・ゴー・ホーム」とか「アミー・ゴー・ホーム」と米軍車両に声をかえておられます。
 この方は、このたたかいの象徴的な存在の、島袋文子さんです。島袋さんは機動隊に向かって、「あんたたち、戦争がどんなものか知ってるか? 私は血と泥にまみれた水を飲んで生きてきたんだ。あんなことは2度としちゃいけないんだ」と言っておられます。沖縄戦の時に、半身にやけどを負った体験から86歳だそうですけれども、毎日のように最前線に来て座っております。 私が沖縄に行くと石原艶子さんや親しい人たちが、「あなたはまだたたかいになれていないから、怪我したら大変だからその辺で写真を撮って、怪我をしないようにしてくれ」と言います。私もいつもそれに甘えて、攻防戦に入りません。その分、文子さんをガードしようかなと思って傍にいました。ある朝、シュワブゲート前で攻防があって、手荒に仲間が排除されて、工事車両が次々とゲートの中に入っていったんです。すると、文子さんが私をキッと見て、「あなたここで何をしているの。向こうへ行って戦いなさい」と言って怒られてしまいました。そうできたら良かったんですけれど、私は気がちっちゃいものですからできませんでした。

 これだけは言っておきたいことですけれど、ここへ行ったらみんながみんな機動隊とぶつからなきゃいけないんだとは思わないでいただきたいですね。それぞれができる形でしてください、ということです。ですから私も怪我が怖いし、いろいろ怖いものですから、写真を撮ってこうやって皆さんにお伝えするというのが自分の役目と思っているんです。ですからいろんな形での参加の仕方があると思います。
 石原艶子さんですね。夜が明けてきた所です。攻防戦が終わって、これからどうしようかなという時間帯です。この方たちは、ベテランズ・フォー・ピースという退役軍人の方々です。米軍兵士として過ごし、退役して、自分たちが戦争に参加したことは間違いだったということを認めて活動しています。アメリカの大きな団体のようですが、私が行ったときに2回ほど会いました。この人たちはベトナム戦争に参加した人、アフガン戦争、イラク戦争に参加した人もいます。ベトナム戦争時の退役軍人の方などは、失礼ですけれど、攻防戦に参加しても大丈夫かなと思っていましたが、攻防戦がピークの時に、この人たちがサーと走ってきて、腕を組んで工事の車を止めようとしている姿を見て、さすが海兵隊員、元米兵だなと思ったんですけれど、面白かったです。
 この人たちが時間のあるときにいろいろお話をしてくれました。特にベトナム戦に行ったときに、枯葉剤を撒いた。それはベトナムの人たちをひどい目に合わせただけではなく、自分も枯葉剤の影響で子供がその後、産まれたけれど障がいを持っていたんだということを語られました。今もこのような方たちが中心になって、ベトナムの枯葉剤の被害にあった人たちの支援活動も行われていると言っていました。イラク戦争に行ったという比較的若い方からは、イラク戦争やアフガン戦争に自分たちが参加して、「テロリストをやっつけるんだ」と言われてやってきたけれど、実際は自分たちがテロリストで、とんでもないことだったということを語りました。ゲートの中にいる米兵に向かって、「君たちもそっちにいないで、こっちに来て一緒に座り込もうじゃないか」というような話もしていましたね。
 この中にアン・ライトさんという方がいらっしゃるんですが、この方はイラク戦争が始まる前に、確か、副国務長官のような重要な任務を担っていたそうですが、この戦争はやるべきではないという意見が入れられず、その重要なポストを辞してこの運動に参加しているということを聞きました。

 先ほどアレン・ネルソンのビデオのことを紹介していただきましたが、「九条を抱きしめて」というビデオを皆さんも機会があれば見ていただきたいと思います。アレン・ネルソンさんはベトナム戦争の時に参戦して、帰ってきてからPTSDに悩まされて家庭生活もままならなくなってホームレスになりました。ある時、アメリカの高校で自分の戦争体験を話すことになって、戦争のかっこいい側面や銃の撃ち方など説明しました。最後のところで、高校生が「アレンさん、あなたは人を殺しましたか?」と聞きました。もちろん大勢の人たちを殺してきました。その時に、今まで自分の話を喜んで聞いてくれていた大勢の高校生たちが、自分が殺したと言ったらがっかりして、自分のことを馬鹿にするんじゃないかという思いで逡巡します。でも戦争がどれほど悲惨で、人殺しなんだということを分かってもらうためには、自分がどんなに馬鹿にされても言うべきではないかと思って、「はい、殺しました」と言ったんです。
 高校生たちがネルソンさんのところに集まってきて、「可哀想に、可哀想に」と言って、共感してくれたと言うのです。それからネルソンさんは、いろんなところで自分の戦争体験を話すようになってきました。なぜならば、18歳で入隊するまで自分は、戦争というものがどういうものか知らされていなかった。知らされていたならば海兵隊に入らなかったし、戦争にも参加しなかった、という思いだったようです。
 話が前後しますけれど、ここに宜野座映子さんという方が見えます。この方は学校で英語の教師をしていました。1995年に沖縄で少女の暴行事件がありまして大勢の人たちが立ちあがりました。宜野座さんを中心とする女性たちはアメリカに行って、沖縄でこんなひどいことが起こっているとキャラバンのようなことをしたそうです。その時に、「この中で元兵士だという人がいたら私のところに来てください。そして日本に来てください」と言ったそうです。誰も名乗り出なかったそうですが、アレン・ネルソンさんだけが「行ってもいいよ」と言ってくれたんだそうです。「ただし、1回だけだ。」 そして沖縄に来て、宜野座さんの家に滞在して、だんだんに自分の話していくことの重要性を知ったアレンさんは、日本中何千回という位、自分の体験を話して廻りました。そういう中で憲法9条を知って、「これを知っていたならば、自分は、自分の国も、他の国も戦争に巻き込まれることはない。これは何よりも、核兵器よりも強い武器なんだ」ということを彼は語っています。
 残念ながらアレンさんは亡くなりましたけれど、アレンさんの治療のために宜野座さんたちはたくさんのお金を集めて、お見舞いに持っていきました。遺されたお連れ合いが、ベトナムの人たちのために使ってくださいと言われたので、宜野座さんたちは「アレン・ネルソン奨学資金」というものを作りまして、ベトナムの子どもたちの奨学金制度を続けているそうです。
 一番気になるのが、ベトナムで大勢の人を殺したアレン・ネルソンの奨学金をベトナムの人たちが受けとってくれるかどうかでした。それで奨学金を作ったときに、ベトナムの人たちに聞いたそうです。ベトナムの人たちは、アレンが「自分はベトナムに来て、ベトナムの人たちを殺しました。あなたたちの町を燃やしました。それでも私を赦してくれますか?」と謝ってくれた。だからもういいんだ。喜んでネルソンさんの奨学金を受けとりますと言って、続けられているそうです。
 私が宜野座さんのことをご紹介したいなと思ったのは、アメリカに行って、沖縄の基地のことを話して、それが何になるの?と皆さん思いませんか。でもこんな大きな力になったし、アレンさんだけでなく、ベテランズ・フォー・ピースという人たちが、今も、辺野古のことを自分たちのことの考えて行動してくれています。
 宜野座さんのことをもう少しご紹介したいと思うのですが、宜野座さんの住んでいる石川市と言う所は、1957年にジェット機が墜落して、小学校に激突して大勢子どもたちが死にました。そんな出来事を多くの人たちは黙っていました。でもその時から50年経って、ハーフセンチュリーということで、「フクギの雫」という舞台を宜野座さんたちが中心に公演しました。ジェット機が墜落して子どもたちが死に、その後、負傷した人たちがどうなっていったかという舞台で、これもとても印象的でした。この「フクギの雫」が元になって、「ひまわり」という映画が作られました。皆さんも見てくださったと思いますけれど、「宮森小学校米軍ジェット機墜落事故」を語り継ぐ演劇として作られたのが映画にもなったんですね。
 3年ほど前に石川小学校へ行ったとき、この時宮森小学校ジェット機墜落事件の起こったときに22歳の教師だったという方にお会いしました。その方は今年の1月12日に亡くなったのですが、「石川宮森630の会」の会長をしておられまして、近くにあった公民館にこの「630」が集めたいろんなものが展示されている中で、一生懸命時間を越えて話をしてくださいました。これだけは伝えておかなくちゃいけないという感じでした。宮森小学校には今、この11名の児童の死を記念した碑が建っていますので、皆さんが行けば見ることができると思います。

 画面を見ていただきますが、これは「汀間」という港です。この港から辺野古や大浦湾の方に船が出ていきます。この「汀間」という港を利用する人たちは、防衛庁に雇われている海人でもあり、建設反対する人の船の出る場所でもあります。ですから攻防戦をする人たちが同じ港から出かけていくわけです。
 私が船に乗せてもらって、海の方へ連れて行ってもらったら、すでに防衛庁に雇われた人たちの船があちこちの沖合で待機しています。1日ずっと待機しています。その傍を、私たちが乗った船は速度を緩めて、お邪魔にならないように過ぎていきます。 反対派だとか、防衛庁側とか敵対するんじゃなくて、お互い立場があってこうやっているんだということで、配慮しあっているんですね。 台風の後は、港にゴミがいっぱい集まります。すると協力し合って、お掃除するんだそうです。無駄な争いとかいうものはしたくないというという配慮が行き届いているんですね。ここから船が出て、もう少しこっちの方からカヌーが出ます。カヌーは短い距離ならいいんですけれど、海を渡っていくというのは結構な距離なもんですから、船に曳いてもらって現場の海に連れて行ってもらって、ここから入っちゃいけませんよという周辺を漕いで回ります。そのようにして海の調査や海岸の工事を止めるということをしているんですね。とってもきれいな海です。
 ですからキャンプ・シュワブゲート前の攻防戦と海での攻防戦と髙江での攻防戦というのがあるわけです。(攻防戦と言いながら、この活動にふさわしい言葉がないものかと思います。)
これは金井創という、佐敷教会の牧師です。彼はたまたま船を操縦する免許があったということですが、免許のない人は免許を取って、海の攻防戦に参加します。3隻か4隻船があるそうですけれど、海にでるときはかならず2隻で出るそうです。1隻に何かあったときにもう1隻が助けるというためだと聞きました。
 これがここからは入っちゃいけませんよということで、海に広大な範囲で張ってあるバルーンです。一箇3万円位する大変なものだそうです。台風が来るとほとんどこれが壊れてしまって、陸に打ち上げられてしまって、また新しいのを買って張らなくちゃいけないのですね。今これは、裁判の和解があった後、全部撤去されました。ここを近づいたり、越えると防衛庁の人たちが入らないでくださいと叫び続けます。「危険ですから」と。
 この写真は工事を進めているところです。この工事を止めるために、みんながカヌーでここへ入っていったりしていて、工事を一生懸命止めようとしています。いつもたたかっているんじゃなくて、時間のあるときは海の様子を見せてくれたり、山の様子を見せてくださったりして、皆さん気を使ってくださっています。ですから観光もできます。

 これは朝の攻防戦のときで、機動隊員がお年寄りを運んでいくんですね。この前、石原艶子さんはお尻が痛いと言っていました。下ろされるときにドシンと落とされて、ずっと痛かったと言っていました。あるいは手とか足に痣ができるので、排除されると言うことは結構危険なことです。
 これは石原昌隆さんも病気で1年位、現地に来れなかった。山城さんも癌の治療のために来れなくって、久しぶりに再会して、お互い元気でよかったねと言っている写真なんです。ですから、元気いっぱいの人たちがたたかっているんじゃなくて、みんな無理をしながらこうやって集まっています。  この方は愛知県の瀬戸の方で、歌がとてもお上手でした。この頃は攻防戦が穏やかだったものですから、ゲート前もすごく和やかで、彼女は上手に歌を歌ってくれていました。こんなふうにいろんな出会いがあります。
 これは辺野古ではありませんが、友人が案内してくれた海中道路周辺です。大浦湾もこんなふうにきれいな所ですから、基地になるなんてとんでもないことだと思います。
 この方は始めて沖縄に来て、定年退職して、沖縄を一度は見ておかなくっちゃいけないからといって、私が名護のバス停にいたら声をかけてきたんです。「同じ所へ行くから一緒に行きましょう」と言って、「初めてだから何もできないから」というのを、「そんなことを言わずに私と一緒に歩きましょう」と言って、行動していました。そのうちにお昼になったですね。石原艶子さんが「おそば屋さんに行きましょうか」と言ってくれました。彼女を誘って待っていたら、日蓮宗の和尚さんが声をかけてきました。「何するの」というから、「これから艶子さんとおそばを食べに行くんだ」と言いますと、「僕のところで食べたらいいよ」と言ってくれたんです。「和尚さんごちそうしてくれるの?」と言ったら、「いいよいいよ」と言ってくれました。
 この方は辺野古に住み着いている日蓮宗の和尚さんだったんですね。私たち女性3人で伺いました。狭い本堂と台所があって、和尚さんがそばを茹でてくれました。そして互いに身の上を話しました。日蓮宗の和尚さんと無教会の信者である石原さんと始めて会った女性とプロテスタントの牧師が和やかに楽しく食事をしました。

 4月にゲート前に行ったときに、トラック協会の人たちがやってきました。セメント会社の人たちもやってきました。大阪でトラック協会の会長さんが、辺野古に基地を作らせないと言って、ダンプでデモしたんですね。嘘かと思うくらい何台もダンプカーを連ねたデモの写真をネットで見ました。その主催者たちが辺野古にやってきて、辺野古建設のために自分たちの生コンとかトラックとかを提供しないということを話してくれました。
 この方たちは辺野古の現場でたたかっている人たちとは違って、背広を着ている人たちでした。面白いなと思ったのはいろんな人たちがそういった形で参加しているということでした。

辺野古土砂搬出反対全国連絡協議会

 故郷の土砂を戦争に使わせないために―西日本7県の土砂搬出地と沖縄を結ぶ― 
   このタイトルの協議会が2016年4月18日に名護市屋部支所大ホールで行われました。
     日本の各地の取り組みとして、四国の人、九州の人、三重県の人、名古屋の人、いろんな人たちが、辺野古に基地を作るためには膨大な土砂が必要だ。それには九州から四国から持って行かれる。だから自分の住んでいるところの土砂を辺野古に運ばせない運動をしましょうということで、そういう運動が全国的な組織として立ちあがっていました。
 名古屋はそれとはあまり縁がないようなんですけれども、ケイソンと言って、土砂を固めるための枠が必要なんですが、その枠はこの礼拝堂の半分位の大きさなんですけれど、それを三重県のある会社が作っている。そこに行ってケイソンを作らせない運動というのも始まっています。
 ですから現地に行かなくてもできることはあるということです。名古屋の友人たちは月に一回くらい名古屋にある海上保安庁に行って、海上保安庁の人たちが本来の業務をはなれて基地建設を進めているのはどういうことかと抗議をしたり、その工事を請け負う大成建設の前へ行って抗議行動とかもしています。
 私は何年か沖縄に通ってきて、1年ほど前から親しい友人たちが頻りに怒るようになりました。集団自決の場所とかを見学していたときに、本当に本土の人間は許せないというようなことを言われまして、私が、「あれ、あなたいつも穏やかに説明してくれていたのに、最近随分本土の人間のことを怒るね」と言ったら、「島さん、いままで本当に私たちの話を聞いてきましたか?」と言われました。彼女は、「本土の人はもう沖縄に来ないで自分の住んでいるところでしっかり運動をしてください」とも言われました。沖縄の中でも、かなりの人たちが、「もう本土の人間には期待しない。自分たちで独立してやっていくんだ」という意見を持っている人もいます。
 私は沖縄の人たちが来るたびに、「もっと沖縄のことを話してください。もっと私たちに分かるようにしてください」と言ってきましたし、多くの人たちが名古屋に来て話をしてくれました。でもそれで何も変わらなかったんですね。だから怒っているんです。私はもう彼ら、彼女らに、「もっと話して、もっと分かるようにして」と言うのはもうできないと思いました。もう何年も語り続けてきた彼、彼女らにまだ語らせようとするのか。もう許せないなと私自身も思うようになりました。

 一方では、山城さんのようにゲート前でできることをしてくれればいいよと言ってくれる人もいます。先ほどの車の下にもぐってしまう人とか、石原さんたちはトラックの前に大手を広げて立ちふさがります。怖くてたまらないもんですから、もう分かったからトラックの前に飛び出したり、米軍車両の前に飛び出すのは止めてくれないかと私が言いました。私はその光景にどきどきしてしまって、テントの方に先に戻りました。彼らも戻ってきて、「島さん心配しなくてもいいよ。沖縄はこうやってずっとたたかってきたんだから。」と、テントに展示している写真を見せて説明してくれました。山に銃弾を撃ち込む訓練を止めさせるために、銃弾の届くところに座り込んで、それを止めさせてきたという説明をしてくれるんです。つまり、皆さんは命を懸けてたたかってきたんです。私が基地を作らせたくないというのは、どこかで余裕がある。この人たちは切実な思いでたたかっているんだなという事を痛感しました。

 今日、皆さんへの呼びかけ文の中で、「全基地撤去しかない」と言っているのは、新しい基地だけでなくて、既にある基地がどんなにたくさんの問題を起こしてきたかということだと思うのです。
 戦後、基地があるために象徴的な事件・事故。1955年9月3日、石川市に住む6歳の女子が嘉手納基地所属の軍曹に強姦殺害され、4日に嘉手納村水釜の海岸で発見される。6歳の少女ですよ。1959年、先ほど言いました6月30日、石川市の宮森小学校に燃料を満載したジェット戦闘機が墜落し、児童17名が死亡、100名以上が重軽傷を負う。この事件が「フクギの雫」や「ひまわり」という映画になりました。毎年たくさんの事件が続いています。1995年5月10日宜野湾市で海兵隊員が日本人女性を殺害する。9月4日沖縄本島内で、女子小学生が海兵隊員と海軍兵に拉致・強姦される。
 このことがあって沖縄中が立ちあがり、普天間が辺野古移設が提案され、基地の負担軽減と言われたわけです。でも先ほどのビデオで分かったように、もう古くなって使い道のなくなってきた基地を、新しいところに移設して、機能的に強化するというのが実際なわけです。 皆さんは、あまりに毎日いろんな事件が起きて忘れてしまっているかもしれませんけれど、今年の4月に事件が起こりました。最初行方不明と言われて、4月の終わりくらいでしたけれど、その方が遺体で発見され、その殺した人が元海兵隊員で、基地で働く人だということが分かったわけです。その時から、もうこれ以上我慢できない。新しい基地は作らせない。それだけでなく、今ある基地も持っていってもらいたい。それが沖縄の人たちの叫びです。
 こちらにいるとニュースソースがあまりにもないので、インターネットで知るしかないし、口コミしかないんですけれど、運動を分断する記事なんかがあります。今日皆さんに配られている記事も、髙江の旧住民と新住民が対立しているかのように書かれていて、とても残念だなと思うのです。今の緊急課題としては髙江の運動を孤立させないと言うことが大事です。山城さんたちも言っていますが、本土の人たちの無関心が犠牲を生み出し続けているんだというふうに言っています。

4月の末に20歳の娘さんが殺されたことに対して、慰霊祭が行われたとき、大城愛さんという方がこんなスピーチをなさいました。
 「被害に遭われた女性へ 絶対に忘れないでください。あなたのことを思い、多くの県民が涙し、怒り、悲しみ、言葉にならない重くのしかかるものを抱えていることを絶対に忘れないでください。あなたと面識のない私が発言することによって、あなたやあなたがこれまで大切にされてきた人々を傷つけていないかと日々葛藤しながら、しかし黙りたくない、そういう思いを持っています。どうぞお許しください。あなたとあなたのご家族、あなたの大切な人々に平安と慰めが永遠にありますように、私も祈り続けます。
 安倍晋三さん、日本本土にお住まいの皆さん、今回の事件の第2の加害者はあなたたちです。しっかり沖縄に向き合っていただけませんか。何時まで私たち沖縄県民は馬鹿にされるのでしょうか。パトカーを増やして護身術を学べば、私たちの命は安全になるのか。馬鹿にしないでください。軍隊の本質は人間の命を奪うことだと大学で学びました。再発防止や綱紀粛正などという使い古された幼稚で安易な提案は意味を持たず、軍隊の本質から目を反らす貧相なもので、なんの意味もありません。
 バラク・オバマさん。アメリカから日本を解放してください。そうでなければ沖縄に自由とか民主主義は存在しないのです。私たちは奴隷ではない。あなたや米国市民と同じ人間です。オバマさん、米国に住む市民の皆さん、被害者とウチナンチュウに真剣に向き合い謝ってください。自分の国を一番と誇るというのは結構なことですが、人間の命の価値が分からない国、人殺しの国と言われていることをご存じですか。軍隊や戦争に対する本質的な部分を、アメリカが自らアメリカに住む市民の一人として問い直すべきだと私は思います。
 会場にお集まりの皆さん、幸せに生きるってなんなのでしょうか。一人一人が大切にされる社会というのはどんな形をしているのでしょうか。大切な人が隣にいる幸せ。人間の命こそ宝なんだという沖縄の精神。私はウチナンチュウであることに誇りを持っています。私自身はどんな沖縄で生きていきたいのか、自分が守るべき私が生きる意味を考えるということはなんなのか。日々重くのしかかるものを抱えながら現在生きています。私の幸せな生活は県民一人一人の幸せにつながる。県民みんなの幸せが私の幸せである沖縄の社会。私は家族や私のことを大切にしてくれる方たち一緒に今生きているのですが、まったく幸せではありません。同じ世代の女性の命が奪われる。もしかしたら私であったかもしれない。私の友人だったかもしれない。信頼している社会に裏切られる、何か分からないものが、私を潰そうとしている感覚は絶対に忘れません。
 生きる尊厳と生きる時間が軍隊によって否定される。命を奪うことが正当化される、こんなばかばかしい社会を誰が作ったの。このような問いをもって日々を過ごし、深く考えれば考えるほど、私に責任がある、私が当事者だという思いが日に日に増していきます。彼女が奪われた生きる時間の分、私たちはウチナンチュウとして、一人の市民として誇り高く、責任を持って生きていきませんか。もう絶対に繰り返さない。沖縄から人間の生きる時間、人間の生きる時間の価値、命には誇るべき価値があるのだという沖縄の精神を、声高々と挙げていきましょう。」

すべてのいのち

 長々とお話ししてきて、最後に申し上げたいと思っているのは、島袋文子さんは、なぜ86歳で毎日、基地を作らせないためにたたかっているのか。その時々のお話しを伺いながら、文子さんはあの沖縄戦で死んだ人たちのいのちを背負い、基地で働く兵士のいのちも大事に考え、これから生まれてくる人たちのいのちのことも考えているということです。
 沖縄のエゴじゃなくて、一人一人のエゴではなくて、過去のいのちとこれからのいのちを考えている、非常に崇高な精神がそうさせていると思うのです。宜野座映子さんのことをご紹介しましたが、アメリカに行って沖縄のことを訴えよう。それが大きな力になって、カリフォルニアのベテランズ・フォー・ピースの人たちは、自分たちの大会で、辺野古の基地建設と髙江のヘリパッド建設に反対するという決議をして、名護まで持ってきてくれています。
 みなさん、誰かが一歩を始める。それはイエスだったかもしれないし、ガンジーだったかもしれないし、キングだったかも知れない。そういう精神を受け継いだ、伊江島の阿波根昌鴻さんという方がいました。
 辺野古に基地が作られるまでは法律上の手続きがいっぱいあって、多分、安倍政権の時には作られないと思いますが、髙江のヘリパッドが成功してしまったならば、特措法とか法律を勝手にねじ曲げて、作られていく可能性はあると思います。今沖縄の戦いは、日本が安倍政権の暴挙を止めることができるかというターニングポイントにあると私は思っています。決して沖縄のエゴではなくて、すべての人たちのいのちを背負って、いのちを侵すなと叫んでいる、この叫びに私たちも連帯していけたらなと思っています。長々とご静聴ありがとうございました。   拍手

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