2016年8月7日 佐藤直樹牧師の礼拝メッセージ

あなたがいるから

コリント一 12:12~26
 

一つの体、多くの部分
12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。   13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼〔バプテスマ〕を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。   14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。   15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。   16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。   17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。   18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。   19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。   20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。   21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。   22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。   23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとしでほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。   23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。   24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。   25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。   26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

 8月になり、今年も平和聖日を迎えました。司会者が祈られたように、昨日は広島の原爆忌で、71周年のときを迎えました。朝から平和記念式典が行われ、黙祷が捧げられていました。
 報道では年ごとに被爆された方が高齢になり、その語り手も減っているということが挙げられていました。しかしその体験というのは、直接それを体験したものでなければ語り、そして伝えていけないというものではありません。むしろ聞いた者がどのように受け止め、次の世代に伝えていくのか、またそれを繰り返していくのかということが問われています。

 日本は平和だと言われています。おそらく歴史の中で、70年以上大きな戦いがなかった場所というのは極めて希なのではないでしょうか。だが周辺の世界では戦いが途絶えた日がありません。人間の集まるところに戦いは起きるのだと言ってしまっても過言ではありません。どうすれば共に生きていくことができるのか。どうすれば争いのない一日を過ごし、そして明日も同じように迎えることができるのか。聖書の言葉をとおして考えていきたいと思います。

 あまり平和とは結びつきにくいテキストかも知れませんが、今日はコリントの信徒への手紙一12章「一つの体、多くの部分」というところからお話をさせていただきます。
 このコリントの信徒への手紙Ⅰは、コリントの教会に集まるキリスト者が抱える事になった問題を取り上げています。順番に挙げていきますと、分派争い、道徳上の乱れ、自由ということを誤って用いている事、そして集会の混乱、そして十字架の主の復活の如何について、パウロがコリントの地を立った後に変化していった事柄や解釈について、それらを修正するように書かれたものでした。
 なぜパウロの伝えた言葉が誤って理解され用いられることとなったのか。それにはコリントの人々が、ギリシアの都市の住民の思考、生活様式に大きく影響を受けたということがありました。そこには富める者、貧しい者という社会階層が生じていました。
 パウロの福音を聞いたのは貧しい人だけではありませんでした。パウロもイエスと同じように病気の人や貧しい人、困っている人、悩んでいる人たちに語りかけてはいたはずです。しかしパウロはその町に拠点を得るために、財産や力を持つ人々にも語りかけたことが確かなことです。宣教の拠点を作るためにはそのような人々の力や富を捧げていただき、受け取る必要があったのです。ですからパウロが宣教の主体としたのは、イエスの場合と同様に貧しく悩む人々であったと同時に、いわゆる都市の有産階級も想定していたのでした。
ここにふたつの大きな意識の変化と言いますか、今までと違うキリスト者の群を形成が起きました。一つは知識層で知識により神を知るならばすべては赦されていると主張するもの、もう一つは霊あるいは魂と肉体は一体だが分離できるもので、神の霊によって肉体が清められれば人間としての完成すなわち救いを得られるという考え方もその中に入ってきました。パウロ自身はこれらの考え方を知らなかったわけではありません。むしろ彼等の言葉を引用しつつ、一つ一つ打ち消すように本書では論じています。
 パウロがコリント教会に渦巻いたであろうこれらの言葉を本書に取り入れてくれたことによって、コリント教会の状況を、現代の私たちは知ることができます。そうでなければ、パウロへの反論者の言葉というものは別の書物で残されてはいませんので、コリント教会に影響を与えた主張を再構成することはできなかったといわれています。

 そのコリント教会を支配しつつあった主張は、ある書物ではこのような形になるだろうとまとめられていました。神の恵みとしての死者の復活を否定し、知恵による言葉の解釈を誇り、弱き貧しい者をないがしろにして満ち足りた富者となり、自由と知識を誇示し、礼典と職制の秩序を乱し、イエスの死の有意義性を否定した、と。
 パウロが問題とした事柄の一つに、弱い者を顧みず、配慮もしていない、ということがありました。これはイエス・キリストがどのように生きてこられたのか、その生だけでなく、イエス・キリストが最も弱き者となって十字架で死に、陰府にくだったという十字架の愚かさとそこに現れた神の栄光を顧みずにないがしろにすることにつながっています。
 神の栄光とはどこに現れたのか。それは最も低く、弱くされた者に現れたのです。それを象徴するのがイエスの死、イエスの十字架と死、そして神によって与えられた主の復活の出来事でした。世にあって打ちひしがれた者、苦しみと悩みを抱える者、差別された者に神は働きかけられるのです。神がキリスト自身を十字架の死に向かわせたということは、神は弱き者のところにおられ、高き者を低くされることの証なのです。
 ではパウロはコリント教会の何を修正しなければならなかったのでしょうか。それはもう一度キリストの弱さに立ち返る事。即ちその死の意味、十字架は人の目には愚かであっても、神の栄光はそこにのみ現れたということを知るということです。それゆえに、私たちが神の栄光に与る、神とともにこの地上を生きようとするならば、弱い他者を配慮しなければならないのです。困難さをともに抱え、生きていくことに関わらねばならないのです。パウロはこれをキリスト者の生きる姿勢として勧めています。

 このコリントの信徒への手紙一の12章冒頭では、人に与えられた賜物には様々なものがあると、間の多様性を語っています。人にはそれぞれ得意な事、苦手な事があります。苦手な事をあげてくださいと言われたら枚挙にいとまがないでしょうか。私自身苦手なことは料理とか、楽しいゲームの時間をリードすること、歌や楽器などたくさんあります。でもなんとかこなしていると言われてしまえばそうなのですが、あれができない、これもできないと人から言われて評価されて苦しい思いをする事があります。しかし人には与えられたものがあり、それらを神が生かしてくださるということをパウロはまず述べています。
 人々は多様である。しかし人々はキリストにおいて一つにならねばならないと言うことをパウロは勧めているのです。この相反するかのような問題をパウロは人体の部分になぞらえて取り扱っています。それが今日お読みくださった聖書の箇所です。
 体は一つの部分でなく、多くの部分から成っている。足が、耳が、目が、私はこれができるがあなたはそれができないと主張するだろうか。こう言われています。すべての部分が、体という一つになって、どれも欠けてはならない存在である。その背後には教会の中で、ある人々が有能だからと尊重された、あるいはその有用な賜物を持つものがそれを誇り、ほかの人々を蔑視していた。いわゆる能力のある人々が、自分は完成された者だと言うような、自らを誇る言動があったということが想定できます。
 しかし、パウロは22節でこう言います。「それどころか、体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです」。
 人の弱さは、弱い部分を隠そうとすること、格好と見栄えを良くしようとすることにあります。いかに格好良く人に見せようか。そして強い部分、これは有益なという意味ですが、そこだけが強調されずに、弱い部分、役に立たないと思われる部分を保護し、配慮することで共同体は一つであり続けられるのです。

 今日は子どもたちの出席がありませんが、子どもたちに話そうとして今日用意したのは「ドラえもん」の話でした。
 ドラえもんは、秘密の道具をポケットから出して、のび太という少年の悩みを解決するかのように見せて、成長を促していくという話です。
 このドラえもんの出す道具のなかに、「どくさい(独裁)スイッチ」というのがありました。わりと昔に描かれたものなので良く知られているかと思うのですけれど、「どくさいスイッチ」というのは任意の生き物を消すことができるというものです。運動の嫌いなのび太少年が野球ができずいじめられるのです。そうするといじめっ子の大将のジャイアンが「お前のせいで負けたんだ」といじめる。よくあるパターンです。
 そして家に帰って、ドラえもんに、野球ができずにいじめられた。ジャイアンなんか居なくなればいい、と一言いうのです。じゃあ君の望みを叶えてあげようというわけで、「どくさいスイッチ」という道具を出すのです。これはその人を消すことができる。消すというのは単純にいなくなることではありません。最初から居なかったことになるのです。ドラえもんは「これは恐ろしいスイッチだから簡単に使ってはいけない」と言うのですが、ジャイアンに追いかけられたのび太は直ぐに「ジャイアン消えろ!」と言って使ってしまうのです。すると彼が持っていたバットがからからんと転がっていく。消えてしまったんだ。本当に消えてしまったんだろうかとジャイアンの家に行ってみると、「うちには武(たけし ジャイアンの本名)っていう子は居ませんよ」と言われてしまう。最初から居なかったことになっていました。
 ジャイアンが居なくなった友達グループではスネ夫が野球チームの監督になっていて、また「お前のせいで負けた」といじめられる。そこで「スネ夫消えろ!」と言ったらスネ夫も最初から居ないものになってしまった。こんなことをして良かったのだろうか、えい、分からない、みんな消えろと手足をばたばたとした時にスイッチが入ってしまって、本当に誰もいなくなってしまいました。これは気楽だ、カップラーメンでも食べようとすると見当たりません。いったいカップラーメンを作っているのは誰だ、お湯を沸かそうとしたらガスが出ない、電気を作っているのはだれだ、電気屋さんだと思い電話をしても誰も出ないのです。
 「困った、一人では生きていけない!」こう気がついたときにドラえもんがひょっこり出てきて、「のび太君」と声をかけるんです。「一人では生きていけないことが分かったかい。」と。そして「どくさいスイッチ」の隠しスイッチを元へ戻すと、みんなが元へ戻ってくるというお話でした。
 人は一人では生きていけない。そしてどんな人も決していなくなってはならない、大切なものなのだということをこのお話は教えようとしたものなのでしょうか。私たちも考えてみたいと思います。

さてこのパウロの、私たちの体の中で弱く見える部分がかえって必要だ、なくてはならない、という22節が一つ目の結論、主題でして、もうひとつは26節に挙げられています。
 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」とあります。苦しみや喜びをともにするというのは、人間の結びつきを強くすることです。パウロはローマの信徒への手紙においても、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)という感情の共有を勧めています。
 パウロはこの共感を、見て分かりやすい部分、外的な身体的機能に注目して表現しました。しかし私たちの苦しみ、悲しみ、悩みは表に出ることはなく、むしろ表に出ないものの方が人に分かってもらいにくいのです。そして中に秘められたものとなり、その人の中でどんどんと大きくなっていくものです。そのように苦しむ人にどのように寄り添い、パウロが二つ目の結論として勧める、苦しみや喜びを共にする、あるいは喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことができるようになるのでしょうか。

 今月の説教を準備している時に、この事にどう触れるのか、今の今まで悩んでいる大きな出来事が起こりました。
 ご存じのように、先月下旬に神奈川県の障害者福祉施設で殺傷事件がありました。事件の詳細についてここでは話しませんが、私にとって大きな衝撃であったのが、容疑者の若者がこの施設の元職員であったということでした。私も重度心身障がい者の施設に勤務するものとして、このことをどう理解すればいいのか、この容疑者の若者が一人狂気に落ちてしまったということですませられるのかという思いを今持っています。
 私の職場においても、このことがどう話されたかということに関心があろうかと思うのですけれど、これに関しては誰も何も話しませんでした。昼食の時や午後のお茶を飲む時間にはいろんなことを話すのですが、誰一人この出来事を話題として取りあげることはありませんでした。施設の運営レベルでは実際どうするかということは話し合われているかと思うのです。しかし職員同士、また利用者の前でこのことが話されたということはありませんでした。それぞれに思うことはあったと思うのですが、とても一言で簡単に話せることではなかったというのが共通の思いだったのではないでしょうか。
 彼の主張も報道で紹介されました。衆議院の議長へ届けて、そのまま放置されたというのが現状だったようですが、彼の主張によると、社会的弱者を「この世のために排除する」という主張をしたと言います。しかし現代の社会はどのような障害があろうとも一人の命、人権は尊重されなければならない、というのがこの社会の在り方として共通の理解となっています。
 介護というと一方的にお世話をしているというイメージが広く持たれます。身体介護、生活支援ともに意思が通い、支援をするケアワーカーも得るものがたくさんあります。ほんの少し笑ってくれた、一言ありがとうと言ってくれた、そのことを励みに毎日働いているのです。綺麗事だと言われるかもしれませんが、支援すること、あるいは支援を受けることも一方通行の作業ではありません。意思を確認し、尊重することでしか成り立たない事柄です。
 彼はここで何を感じたのでしょうか。あるいは感じた事が捻れてしまったのでしょうか。彼自身が目標としたことが適わなかったことで、社会的弱者を攻撃することに自分を正当化してしまったようです。自分が優れた人間だと錯覚したのでしょうか。社会にうまくとけ込んでいるように見えても弱い自分を認められなかった。強くなくてはならない。その中から独善的な思考が、彼をこの凶行に走らせてしまったのでしょうか。

 強いものが尊重され、弱い者が虐げられ隠されていく。富むものが富み、貧しいものがより貧しくされていく。現代の社会の弱さと貧しさはここに集約されているのではないでしょうか。生きづらさがここに現されているのではないでしょうか。
 この地上に平和というものを実現するのであれば、弱い者を生かしていかねばならない。このことにのみ解決が示される道があるのではないでしょうか。弱き者が生かされない世の中は、強き者も、あるいは強いと思っている者も亡んでいく世の中になっていくのです。そこには私たち一人一人のあり方が問われています。
 ではお祈りいたします。

 神様 平和聖日の朝を迎えました。来たる週毎に礼拝において祈り、捧げ、その中で平和がこの地に、私たちの間に実現することを祈り願わない時はありません。過ぐる戦いの時を終えることとなった、原爆の大きな痛みや歎きを憶えるこのとき、改めて平和への思いを、強く心に刻むときとなりました。力によっては何も解決することはありません。力によっては失うものばかりです。私たちがこの平和を実現するのならば、私たちの中に、私たちとともに生きる弱き者、困難を抱える者、悩みある者その一人一人とともに生きねばなりません。平和を実現するためにはその一人一人に存在が確かなものとして大切に尊重されねばなりません。あなたがいるから私は今日生きていくことができるのだ、あなたの弱さが私たちを生かしているのだ。この思いを一人一人ができる世の中を作っていくことが叶いますように。一人一人をその担い手として、どうか主よ、あなたが用いてくださいますように。今日この礼拝を覚えながらもこの場に集えなかった一人一人に、又とりわけ夏の暑さの中、困難を覚えている一人一人に、又それぞれの場にある子どもたちをあなたが顧みてくださいますように。この祈りをここに集う一人一人の祈りに合わせ、私たちの救い主イエス・キリストの名によって御前にお捧げいたします。
                                    アーメン

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