2014年8月17日 平和聖日礼拝 佐藤直樹牧師メッセージ
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石つぶてのうめき

ルカ19:37~44
 37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
 38 「主の名によって来られる方、王に、
   祝福があるように。天には平和、
   いと高きところには栄光。」
 39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。43 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、44 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」

おはようございます

久しぶりに茨坪伝道所にお招きいただいたと思っていますけれども、入ってきたとき2か月ぶりですかといわれて、数えてみたら4か月ぶりなんです。前はもう少し涼しいときだったなと思っていたんですけれども、久しぶりに来たのに最近来たような気がする不思議な場所といいましょうか、空間だなと思いました。

さて、今日は平和聖日ということでお話しをさせていただきます。

平和ということをテーマにどういうことをお話ししようかなと思って、題材探しは今は毎週説教をしませんので、1か月くらい前から来月は話をするんだと思って、2週間くらい前から意識して新聞を読んだりして考えますと、平和でないことだらけですね。

先ほどお祈りの中でもありました、首相の言葉、広島で語ったことは昨年とほとんど変わらなかったという検証がなされているようですけれども、今朝も沖縄の辺野古の海で海上保安庁が反対運動を続けている方の小さなボートやカヌーを大きな船ではさんで、乗っている人を拘束して引き上げる。インタビューで、目のところを押さえられて眼鏡が壊れたといって、壊れためがねを掲げている映像もありました。海上保安庁のボートに引き上げられて、事情を聞かれると思うのですけれども、これらのできごとの前に何ができるのか。私自身は辺野古の海には行ってないですし、反戦運動といっても、デモに参加とかは今はしてないですね。学生時代は出掛けたことはあったんですけれど。

一体この大きな力、避けようにも避けようのないうねりが私たちを包んでいる。その中で諦めかねない、自分ではどうしようもないんだ、一人が声を挙げても世の中は変わらないんだ、平和・平和といってもそれは空しい叫び声にすぎないのではないかと思うわけです。

しかしそんな中にこのような歌を思い出したんです。

「一人の手」という歌です。これはかつて教団が出していました「共に歌おう」という讃美歌集があったんです。讃美歌の一編・二篇の後に「共に歌おう」というのがついているものあがりまして、私の家で探してみたんですが、見あたらなくてお示しできないんですが、「共に歌おう」の34番に『一人の小さな手 なにもできないけど それでもみんなの手と手を合わせれば なにかできる なにかできる』、そして『一人の小さな声 なにもえないけど それでもみんなの声が集まれば なにかいえる なにかいえる』。

かつて勤めていました幼稚園でも、毎月の讃美歌というのがありまして、その中で取り上げられていました。一人では何もできない。しかし、手があり、目があり、声があり、また一人の歩く道は遠くても、そして弱くても、みんなが集まれば、何か見えたり、言えたり、楽しくなったり、強くなったりするのではないかという歌です。

讃美歌21には入っていないんですね。歌詞を見てみると、直接的に神さまを讃美するとか、聖書の言葉が入っているわけではない。だけども、信仰を持ってこの歌を歌ってきましたし、非常に社会改革、公民権運動の戦いを通してこの歌が使われてきた。そしてこの歌詞の真実の強さが新しい讃美歌となって日本に伝えられていった。日本では本田路津子さんが翻訳をされたそうです。説明には、日本的な助け合う気持という意味を、自らの信仰に重ね合わせて歌っておられるとあります。

この歌詞の3番に、『一人の小さな声 なにもいえないけど それでもみんなの声が集まれば なにかいえる なにかいえる』。言い続けていくこと、これが大事なんだな。やめてしまえばそれで終わってしまうんだ、という励ましをこの歌詞から受けました。

私自身もあちこち声を揚げているわけではないですし、今勤めている仕事で精一杯までいっていませんが、95パーセントくらいで、残りは家庭と育児に使っているのが現状です。しかし、ほんのわずかでも語っている、思いをともにしていく。そしてこれではいけない。何かを変えていかねばならない。逆に何かを守っていかねばならない。ということも最近思うようになりました。励ましを受けるところです。

さて「平和」という言葉の反対の意味を持つ言葉というのはなんなのか。よく言われることですけれども、平和の反対は戦争だとかいてあるものもあるわけです。ですけれども、戦争反対と言うけれども、戦争がなければ平和なのかというとそうでもない。争いは毎日どこかで続いている。しかし、戦争でなくても一人一人の間に不穏が合ったり仲違いがあったりする。この状態も決して平和ではないわけです。

ですから戦争の反対というのは「対話」ではないか。

話し合っていくことが続いている。

私はこう思うんだけれども、あなたはどうですか。

あなたはそう思うんですね。私は少し考え方が変わりました。

こう対話が続いていくこと。お互いを尊重していき、お互いの意見を聞いていくこと。これが続いている間は大きな争いにはならないのではないか。ときどき言葉が武器となって取り返しのつかない争いごとであるとか不仲につながっていくこともあるわけです。

では平和の反対が戦争でないとしたら、例えばこんなことが挙げられるのではないでしょうか。

混沌であるとか無秩序、破壊、破滅。不穏というのも考えたんですが、打ち消しの言葉をつけて反対語というのはどうかなと思いました。

この、聖書の時代も、やはりこの混沌とした場といいましょうか、最初はこの世は混沌としていた、ここから創世記の物語が始まりますが、そこからこの秩序ができていった。これが律法ではないか。しかしこの秩序だけでは、平和、平穏、私たちの間に平安をもたらすことが難しくなっていた。この時代に新たな見方をもたらしたのが、キリストではなかったのか。

今日のところも、弟子たちの讃美の声というものが伝えられております。(38節)「主の名によって来られる方、王に祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」とあります。何か聞いたことがあるなという気がするんです。イエス・キリストが生まれたときの天使の讃美に非常によく似ているわけです。ルカ福音書の2章14節にこのような言葉があります。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心にかなう人にあれ」。

非常に似た言葉なんですけれども、あれ?と思うんですね。逆なんですね。「地には平和、御心にかなう人にあれ」と今日の讃美「天には平和、いと高きところ神には栄光」。「天には平和」といわれている。平和のある場所が地にあるのか天にあるのか、ここに一旦変えられているわけですね。

弟子たちの神への讃美は、メシヤはオリーブ山に現れるであろうとされていた旧約聖書の預言、ゼカリヤ書にあるんですけれど、旧約のゼカリヤの預言、救い主はオリーブ山に現れる、ということを前提に語られております。主の日が来る前の闘いに際して、「主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる(14:4)」という言葉が知らされていました。弟子たちがこの言葉を把握していたのか、あるいはこの福音書の編者であるルカがこの預言を基に記したのか、いずれであるかははっきりしませんけれど、主イエス・キリストが間もなくエルサレムに入ろうとしている。エルサレムに入るときは、ユダヤ人の王として迎えられる。しかしそれゆえに十字架にかかろうとしている。

弟子たちは、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声をあげたと37節にあります。あらゆる奇跡、この箇所の直前にはエリコでの盲人の癒しであるとか、罪人とされたザアカイが回心し、主を自らのうちに迎えることはなかろうと思われていたザアカイが回心した。ここに主の力ある業のすべてが現れたのだ、と讃美したのであります。

この地に現れた平和、地を祝福した平和はここで一旦天に返されるんですね。イエスがエルサレムに入る前に、この平和は一旦天に戻されるわけであります。それはどうしてか。

それが、続くイエスの言葉に表されています。ここで登場するのがまたもやパリサイ派といわれるユダヤの指導者、そしてかれらが持っていた敵意があります。翻訳は非常に穏やかに書かれています。「先生、お弟子たちを叱ってください」というわけです。「お弟子」という、弟子たちに対して「お」がつくほど丁寧に言われているわけですけれど、なぜこの弟子たちを叱らねばならなかったのか。これはイエス自身を的にしているのか。新たな王が現れたということが、そうではないと言おうとしているのか。

しかしイエスは、いずれもそのような答えはしてないわけです。イエスの答えは非常に抽象的な答えです。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば石が叫びだす」。

この人たちというのはだれでしょうか。文字通り読んでいけば、弟子たちと解するのが自然であります。それは、パリサイ派の人々に対して「この人」といえば三人称になるから弟子たちのことだ、ということになるわけです。しかしこのシンプルな言葉でありますけれども、シンプルであるが故に解釈は難しいところであります。直接的には、この主の名による王、この者を王とするのはふさわしくないから、今は黙らせてくれ。それはあなたにも危害が及ぶことにもなるだろうと指導者は注意した。しかしその口を封じるというか、黙らせたとしても、同じ声をあげ、天への讃美はとどまることを知らないといっているのか。しかしこの後のイエスの言葉に結びつけると、この人たち、実は、パリサイ派の人たちの質問を黙らせてくれという解釈もできなくはない。これは、弟子たちのことを石と言っている可能性があるわけです。 この言葉の後ろに、イエスは、都エルサレムのために泣いたとあります。そしてこのイエスの言葉は「もしこの日に、お前も平和の道をわきまえていたなら・・・・」。この「わきまえていた」ということは、今はそれは見えないのだ。平和への道は隠されているのだ。争いごとが起こるだろう。その時は都が攻められ、そこにいる者等は地にたたきつけられ、そしてお前のなかの石を残らず崩してしまうだろう。この崩される石、これは、今、眼の前に立っている神殿、石が積み重なり建てられているユダヤの神殿であるのか、あるいはこの弟子たちがこれより後、崩れることのない岩としてこの主の復活の真実を伝えていくものとなるのか、しかし、それはあなたがたのだれもその時を分かっていない。彼が訪れてくれる時をわきまえなかったからなんだ。 歴史的にはエルサレムの都、神殿は、ローマ軍によって徹底的に破壊される。そしてどの石も石の上に重なっていなかったとまで伝えられています。

イエスはここで平和への道ということを語っています。平和への道、これは争いがないことなのか。弟子たちの間に、ユダヤ人の間に、イエスに救いを求めてくる人々の間に争いがないことなのか。しかし、この地上から争いごと、憎しみ、不和、というのは消えた日がないのであります。それが歴史の真実ではないか。ではこの争い、憎しみ、不和というものが私たちの間に生んでいく基というのは一体何なのか。 イエスは繰り返し語っていたんですね。今日を、今を生きていきなさい。そして安心して生きなさい。多くの人々に癒しを与えました。そして多くの人々に触れてはならないとされた病人に、イエスは手を差しだして触れていきました。そしてその一人一人が生かされていった。これが奇跡の真実だったんですね。

奇跡というと病気の人が治って、歩き出したということが強調されていきます。あまり奇跡が強調されると、じゃ私のこの病を治してみよということになります。私の友人で、中途失明をした牧師がいます。あまりにも奇跡を強調するものだから、じゃこの眼を治してみろ、と叫んだことがある。彼自身は関西出身で、明るくて冗談をよく言う人なんですが、実際そう言ったら、だれも何も言えなくって黙ってしまったということがあった、ということがあったと語ってくれました。

イエスの奇跡、弟子たちがここで讃美した奇跡、それはこの一人一人が、死んでいた者が、死んでいたと同然だった者が、イエスと出会うことで生き返っていった。そして神との関係、そして人との関係を回復していった。これが私たちが見た、弟子たちが見た平和なあり方だ。しかしこれをパリサイ派の人々は止めようとした。奇跡論争から見たら分かりますよね。

どうしてあなたがたの弟子たちは、そのような一緒に食事をしてはならない人のところへ行って食事をするのかと問うた。それは律法にかなわないからだ。どうして今日癒さなくても、安息日だから、癒しは明日行えばいい。しかし、今、出会い生きている。そして関係の絶たれた人がそこにいる。今、語らねばならないということをイエスは強調していた。

このパリサイ派も一緒ですよね。そういうことを言わなくても、今はいいんじゃないか。言うべきことではない。律法にかなっていない。言葉が、あるいは決まり事が、いかに人を生かしていっていないのか、ということをイエスは強調して言った。そしてもし人が黙るならば、だれかが叫び出す。一番良くないのは、このパリサイ派ではなく、あるいは周りにいて何も言わなかった人。その律法によって今は、生かされているのに生きていないとされた人々が居るのに、黙っていた者が、善くない。

平和を作りだすというのは、石のように叫んでいなかった者が、言葉を発して、そうではない、自分はこう思う、と新しいことを言ってみようではないか。ここから私たちの間の関係も回復していく。そしてまた新しい、より穏やかな関係も作られていく。

相手から待っていたらまず語りかけてこないですね。あの人はわたしに挨拶してくれない。職場とかの組織でも、何人かは、目を見て挨拶をしてくれないという人がときどき居るんですね、残念なことに。

私はどう思われているのか正直聞くのが恐いところもあるんですが。顔を見て挨拶することを志しています。それも関係性の回復というなかで、対話をしていけたらなと思うのですけれども。話していかなければ向こうから話してくることは少ないですから、少しでも関係を造っていきたい。自分も穏やかに過ごしたいし、相手も穏やかになってもらいたい。うるさいと思われても、話していくしかないわけです。勝手によくはならない。

石のうめきというのは、無関心を決めているときではない。今まで語っていなかった者が語り出すときが来るんだ。それは、その石というのはうちひしがれて、崩されて、あるいは、どんな小さなものかも分からない。争いの後に、全くそこにはなんにもないという状態の中に、実は存在している小さなものかも知れない。そのものがわずかな声をあげていく。叫ぶというほど大きな声にはならない。うめきかもしれない。腹の中からウゥと出てくるうめきかも知れない。その声をまず出していくことが、平和、そして和解への道筋なのではないでしょうか。

最後にイエスが教えられた山上の説教の言葉から一節読みたいと思います。 マタイによる福音書5章の9節の言葉です。

「平和を実現するする人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。

それではお祈りいたしましょう。

神さま 先週の礼拝は大きな嵐の中、それぞれの場において、御言葉に出会い、また祈りを捧げました。その祈りをどうか私たちの共同の祈りとして受け取ってください。そしてまたあなたが祈りを受け取られたことを私たちひしひしと感じております。愛に守られましたこととともに感謝いたします。私たちの中で平和な、あるいは平安なものや時を探すことが困難なほどにこの世は争いがあり、不穏があり、憎しみがあり、不和があり、その中で悲しみを抱えております。しかし主よ、私たちはこのままでいいと黙することで、これらの嘆きが消え去るのでしょうか。どんな小さな声でもかまいません。私は今苦しんでいる、悲しんでいる、お互いを理解したい、そしてその間に平和をもたらしていきたい。この声をあげさせてください。この声をあげる勇気を与えてください。またその場にあなたがいてくださいますように。今日この礼拝を覚えてこの場に集うことができなかった一人一人に、あなたがその場その場において恵みと癒しと慰めとがありますように。ここに集う一人一人の感謝、祈り、願いとともに、私たちの主イエス・キリストの名によってこの祈りをお捧げいたします。

                                      
アーメン
 
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