森山 昭雄
ま え が き
新約聖書にあるイエスの言葉は、私たちの心に突き刺さるような内容に満ち溢れています。もちろん慰めの言葉もあるのですが、謎めいています。長年聖書に親しんできたにもかかわらず、わたしはイエスの発した言葉の意味を十分に探り当てることが出来ません。2000年も前のユダヤ地方に生きたイエスの言葉は、生前のイエスによって書かれてものではなく、弟子たちあるいはずっと後代の福音書記者によって書かれたものであり、元の話の多くは口伝伝承です。その上、聖書の原本は残されていないで、写本から翻訳されています。数多くの写本によっても少しずつ表現が違います。その間に多くの解釈が加わっていますので、謎めいていて当り前なのかもしれません。
イエスが残したとされる多くの言葉の中で、わたしがもっとも感動しているのが、「野の花、空の鳥を見よ!」という言葉です。イエスは、「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ!」という言葉で宣教を開始しました。イエスの宣教の新しさは、「神の国」の到来を告げたことにあります。「神の国」とは、「神が支配しておられる」ということです。イエスがこのことを発見したのは、まさに「野の花、空の鳥」を観ることによって得られたのではないかと思っています(詳しくは本文の中で)。
この小文は、この聖書の言葉から思い巡らしたことを、わたしの言葉で表現してみました。書き始めてみて、自分の言葉で表現することがいかに難しいか、ということを実感しました。でも今の時点で自分の考えたことを文章にしてみることは、わたしの今の到達点を記録するという意味はあるだろうと思い、書き始めたわけです。聖書学や神学の素人が書くのですから、間違いなどたくさんあるかもしれません。この聖書の箇所の言葉から、キリスト者として、感じたままに、気楽に書いた随想です。気楽に読んでみてください。
言い忘れました。わたしは、日本キリスト教団岡崎茨坪伝道所に所属する一信徒です。現在68歳。愛知教育大学で自然地理学の研究と教育をし、5年ほど前に定年退職し、今は旧作手村で隠居の生活をしています。若い頃から、流域下水道終末処理場建設のために農地を奪われる農民たちへ支援活動、管理教育で人権を侵害されていた子どもたちを支援する市民運動、愛知万博会場建設による自然破壊を食い止めようとした自然保護運動などを行ってきました。一見、内容的には関連性がない別々の運動のように見えますが、わたしの中では一貫しているつもりです。そのことは本文を読み進むうちにお分かりいただけると思います。
「野の花、空の烏を見よ!」という聖書の箇所を、次に載せておきます。以下、特別の断りがない限り、聖書の引用は新共同訳聖書を用いました。
《新約聖書》 ルカによる福音書 12:22~31
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことかできようか。こんなごく小さいことでさえできないのに、なぜ、他のことまで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
(新共同訳聖書より)
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まえがき
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