2016年9月18日 臼田 宣弘牧師の礼拝メッセージ

柔和な人

招詞 マタイ5:5
  5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
マタイ 5:38~42
復讐してはならない
38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

 招詞で読んでいただきました「柔和な人々は、幸いである(マタイ5:5)」。
 イエス様の言われた言葉ですけれども、「柔和な人」というのはどういう人のことを言うのか分かりますか。「柔和」と言う言葉はインターネットで検索しても聖書の言葉としてとしか出てこない。普通には使わない言葉ですね。よく考えてみれば、私たちが学校で使うかと言えば、使わないと思うのですね。
 「柔和」という言葉の意味は、答えを言うと、「仕返しをしない人」ということなんですね。仕返しをしないということはどういうことなのかというと、イエス様は今日の聖書の箇所で教えているわけです。
 それは三つのことが書かれていますが、一つのことだけをお話ししましょう。「あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。誰かがあなたの右のほっぺたをパシーンと叩いたら、こっち(左)も打ってくださいと言いなさいとイエス様は言っているんだけれど、はたしてできるかな。・・・できないと思いますね。
 これは、そのまま受けとらなくてもいい。右の頬を打たれたときに、もし左の頬を向けたらば、相手は続けざまに左の頬を打つかな? 
 普通は右の頬を打つと、「この野郎、何しやがるんだ」と相手の右の頬を打ち返すということが普通なんですね。仕返しということですね。イエス様の言っているのは、右の頬を打たれた時に、相手の右の頬を打ち返すなということを言っているわけですね。そのためにどうしたらよいか考えなさいということを言っているわけなんです。その例として、例えば左の頬を向けてみなさい。そしたら相手の人はビックリしちゃって、左の頬を打つはずがない、普通は。自分が相手の右の頬を打ったことを反省して、「御免ね」というのが普通。と先生は思うのですけれども。そういうふうに考えてください。
 大切なことは、ここで言っているのは、右の頬を打たれた時に、左の方を向けなさいと言っているのは、仕返しはするな、ということなんですね。右の頬を打たれた時に、相手の右の頬をペシャと打つ。そうするとどうするかというと、これは「仕返しの連鎖」という言葉があるんですけれども、仕返しをされた方は又仕返しをするんです。右の頬を打たれた時に相手は又「なんだ、この野郎」と相手の頬を打つ。「なんだ、この野郎」と今度は左の頬をピッシとやられる可能性が高い。
 そうじゃなくて、右の頬を打たれた時に、そこで仕返しを断ち切るために何をするかということを考える。例えば左の頬を向けてみる。そしたら普通はそこで止まるんだよ。普通はね。右の頬を打たれて、左の頬を向けたらさらに其の左の頬を打つやつはよっぽど悪いやつ。先ずそういう奴はいない、世の中には。そういうふうに考えてください。お話はそこまでにします。

天の神様、日曜日に礼拝に来て聖書の言葉を聞くことができまして感謝をいたします。仕返しをしない柔和な人になることができますように。今週一週間お守りください。イエス様の御名を通してお祈りいたします。 アーメン

 それではここからは大人の方のメッセージとなります。
 マタイによる福音書の5章から7章の、イエス様の山上の説教といえるものは、5章3節から10節の8つの幸いであるという言葉が、山上の説教全体の基調になっているわけです。先ほど招詞としてお読みいただきました5章5節には、「柔和な人々は、幸いである」というふうにあります。
 「柔和」とはどういう意味でありましょうか。「柔和」と言う言葉はギリシャ語で、「プラウース」というふうに言いますけれども、ギリシャ語でのこの言葉の反対語、ギリシャ語は反対語というのがしっかりと対になっていまして、はっきりしている言語のようです。ギリシャ語で柔和プラウースの反対語はエクディケーシスという言葉なんですね。エクディケーシスという言葉は日本語に翻訳すると「復讐」あるいは「仕返し」という意味なんですね。だから「柔和な人」というのは、「復讐をしない人」「仕返しをしない人」というふうに考えることができると思います。
 ですから5章38節から42節の「復讐してはならない」という教えは8つの「幸いである」という教えの中の、「柔和な人々は幸いである」という教えに基づいているというふうに考えることができます。
 本日は柔和な人になるということ、すなわち復讐をしない人になるということはどういうことかということを考えてみたいと思います。

イエス様はまず最初に、[「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。」38]というふうに言われています。これはどういうことかと言いますと、旧約聖書のモーセの教えの中に、「目には目を、歯には歯を」(申19:21)という規則があるというのですね。それをあなたがたは聞いている、知っているというのです。もうちょっと分かりやすく言うと、「目には目を、歯には歯」をという刑罰があるというのですね。
 もしも他人の目を潰すという犯罪を犯した人がいたら、その人に対する刑罰はその人の目が潰されるということであるわけです。目を潰されたら、相手の目をその場で潰せと旧約聖書が言っているわけではないのです。これはあくまでも刑罰の話なのです。しかし刑罰の話であるとしても少々残酷ではあるわけですが、イスラエルの古代の刑法というのはそうだったわけです。
 イスラエルだけではなく、いろいろな国の刑法がそうだったというふうに考えられています。そのような記録が残されています。紀元前1700年代のバビロニア帝国のハムラビ王という人が発布しましたハムラビ法典というものがあります。これは大変有名なものでありますけれども、その中にもこの「目には目を、歯には歯を」という刑罰が遺されているわけです。
 「目には目を、歯には歯を」というのは、いわば復讐ですね。旧約聖書には復讐の考え方を取り入れた刑罰があって、犯罪を犯した人には実際にそのような刑罰が施されていたのでありましょう。そして今でも、イスラム教国ではそのような復讐の考え方に基づいた刑罰があるというふうに聞きます。
 イエス様がここで言われているのは、そういう刑罰として存在する復讐ということを他人に対してやってはいけないということですね。
次に言われています。39節ですけれども、[「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」] ここで言われていることは、右の頬を打たれたなら復讐して相手の右の頬を打ってはいけない。そうではなくて自分の左の頬を向けなさい、ということです。
 なぜイエス様は復讐してはならないと語られているのでしょうか。それは復讐をするとその復讐は相手から再び返ってくるからであります。これを「復讐の連鎖」とか、「報復の連鎖」と言います。もし誰かに頬を打たれたとします。そのときに、「何だ、この野郎」と相手の頬を打ち返して復讐したらどうなるでしょうか。ことはそこで終わるでしょうか。終わらないでしょう。相手は又打ち返してくるでしょう。そうすると、そこで打ち合いになって、取っ組み合いの大げんかになってしまうかもしれないですね。
 ここでイエス様が語られているのは、そうではなくて、他人にもし右の頬を打たれたら、復讐して打ち返すのではなくて、左の頬を向けてやれば、ということなのです。そうするとどうでしょうか。右の頬を打った相手はそれに加えて左の頬をさらにもう一回打つでしょうか。右の頬を打った相手の当初のエネルギーは、おそらく右の頬を1回打つだけのものであったでしょうから、左の頬まで打つのは普通はしないでしょう。それよりも、もしかしたら相手はビックリして、右の頬を打ったことを謝るかもしれません。とにかくそうすれば打ち合いの喧嘩にはならないでしょう。
 こういったことが、頬を打つと言うだけでなく、私たちの日常生活の中で常日頃行われるわけです。例えば相手が自分の悪口を言ってきたとします。悔しいから自分も相手に言い返す。そうすると相手は又何か悪口を言ってくる。そういうものですね。

イエス様がここで言われているのは、「復讐」というのは刑罰として確かに存在するけれども、あなたがたの間では復讐はしてはいけない。そうではなくて相手が何か攻撃をしてきたら、そこで止めるようにしないといけない。それを「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」という言い方で語られているのであります。
 日常の生活において、もしも相手が攻撃をしてきたら、その攻撃に対して復讐の攻撃を仕返すのではなくて、相手の攻撃を何とかしてそこで留まらせるようにすることが大切だということを、イエス様は語られているのであります。左の頬を向ければ相手は再び打つことはしないであろう。そのように、復讐の連鎖が起こらないように、知恵を絞って、とにかく事柄をそこで終わりにするようにしなければならないということ、それが[だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい]ということなのです。
 イエス様は続けて、[「あなたを訴えて下着を取ろうとするものには、上着をも取らせなさい」40]と言われます。下着と言ってもこれは肌着のことではなくて、家の中で着る服のことなんです。上着というのは外へ行く時に着ていくもので、普通は家の中で着る服よりも良い服です。普段着に対して余所行きというものです。
 当時は、着る物が訴訟の後に支払われるお金の代わりにもなっていたようです。訴訟を起こしてきて普段着を取ろうとする者がいたならば、それだけではなくて、それよりも良い余所行きの服を持たせなさいとイエス様は言われているわけです。しかし、そんなことをしたら自分は損をしてしまうではないか。けれど、そこまでして相手に愛情を示せば、相手は考えを変えるかもしれない。そういうことをイエス様は言われているわけなんですね。
 少なくとも、家の中で着る服を取られた時には復讐はしないで、そこで愛情を示した方がよい。そういう努力をした方がよい。そうすれば復讐の連鎖は起こらない。ということをここでイエス様は語られているわけであります。いずれにいたしましても、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」ということと、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」ということは、相手から何か危害を加えられた時には、復讐をするのではなくて、もうそれ以上その行為が起こらないようにする方法を執りなさいということであります。イエス様はそう語られているわけであります。
 41節に今日の三つめの言葉「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」とあります。一ミリオンというのは1480メートルですね。約1.5キロと考えればいいでしょう。それは何かを運ぶことを求められているんだと言っているんだということです。
 荷物を1.5キロ先まで運ぶように強いられる。その場合は倍の3キロ先まで運んでやりなさい。そうイエス様は言われているわけです。ここで面白いのは、その3キロをその人と「一緒に」行きなさいと言われていることです。そうすることによってその人と仲良くなりなさいということです。この話は今日のこの例え話に似た3つの最後の話になりますけれども、この3つめの話は、荷物を運べと危害を加えてきた相手に復讐をしないというだけでなく、その人と仲良くなりなさい、とまでイエス様は言われているということなのです。
 暴力を振るわれた場合、或いは物を取られた場合、或いは何かを強いられた場合に、復讐をするのではなくて、復讐をしないで済む方法を考える。できるならば相手の人と仲良くなる。仲良くなりなさいと言うことをイエス様は語っておられるわけです。
 なかなか難しいことだなと思います。
 しかし、このことがイエス様が語られたことの意味であるわけです。なぜそうしなければならないのか。それは最初にも申しましたように、復讐は連鎖反応を起こすから、そして事柄が大きくなっていく。だから最初の段階で止めなければならない。

 イエス様の語られたこの言葉は、やがて初代教会に伝わっていくわけでありますけれども、初代教会においてもこの教えは大切にされているわけであります。
 パウロはローマの信徒への手紙の中でこう書いています。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず神の怒りに任せなさい」(12:17~19)。このように書かれています。
 あるいはテサロニケの信徒への手紙Ⅰの5章15節ですね。「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい」とあります。他人の悪に対して悪をもって報いてはならない。復讐してはならない、とパウロは語って手紙に書いているわけです。
 イエス様は語られた、「復讐してはならない」と言うことを、初代の教会においてパウロも語っているわけであります。大切なことであるからそうしているのでしょう。復讐してはならないと言うことはなかなか難しいことかもしれませんが、これはイエス様が教えられたことの中で、最も大切なことの一つと言ってもかまわないと思います。

 私はNHK文化センターというところで、第1火曜日は浜松教室、第4火曜日は豊橋教室で90分の聖書の講座を担当させていただいております。受講されている方々の受講の動機はさまざまですが、洗礼を受けている方は一人もおりません。信仰を持っているというわけではないわけです。中にお一人だけ無教会の集会に通っておられる方が居られます。
 そういう方たちでありますけれども、皆さん一生懸命、私の話すことを聞いてくださっています。いろいろと質問を受けたりしながら講座を進めているわけですが、ある時、こんな質問が出ました。『キリスト教では何か努力をしなければいけないことがありますか?』。
 その時私はこうお答えしたんです。『難行苦行をするような努力を聖書は説いていません。多額の献金をせよというようなことも聖書は書いていません。ただ、謙虚になるということ、そして赦し合うということ、愛し合うということは努力をするというか、イエス・キリストの十字架を見上げつつ奮闘するようにと聖書は説いていますよ。そしてそれらのことはすべて、イエス・キリストがそうされたのだからそうしなさいというふうな形で聖書には書かれています』というふうにお答えしました。
 『キリストが謙虚だったから、あなたがたも謙虚になりなさい。主があなたがたを赦したのだから、あなたがたも赦し合いなさい。わたしがあなたを愛したようにあなたがたも愛し合いなさい。新約聖書にはこのように書かれています。』このようにお答えしました。
 「謙虚になる、赦し合う、愛し合う」。これらのことが皆、『復讐をしてはならない』という教えにつながるように思います。そしてこれらのことはすべてイエス・キリストご自身がそうされたのだから、あるいは、イエス・キリストが私たちにそうされたのだから、私たちも奮闘するべきことなのです。それをしない時に、お互いが傲慢になり、憎み合い、復讐が起こるのだろうと思います。

 2001年9月11日、アメリカの世界貿易センタービルと国防省庁舎が、乗っ取られた飛行機に墜撃を受けて大破し、3000人以上の犠牲者が出ました。いわゆる9・11同時多発テロです。アメリカの大統領が執った行動は、テロとの戦争であり、いわば復讐攻撃であります。戦場にされた国々では、少なく見積もっても22万5千人の民間人の犠牲者が出たと言われています。しかしこのテロとの戦争と言われるものは、高い支持率を得て、一見成功したかのように見えています。けれども復讐された側の国にアメリカに対する憎しみは残り、次の復讐が起こらないと断言できるでしょうか。ここのところが問題なんですね。
 私は復讐された側の同時多発テロとは何の関係もない一般の人たちに、アメリカに対する憎しみがまた発生しているのではないかと考えます。もしこの連鎖が続いていけば、世界の平和は遠のく一方であるかもしれません。そうなってはならないわけですね。

だからイエス様は、復讐をするのではなくて、何とか知恵をしぼったりして復讐をしないようにしなさい、というふうに言われているのです。イエス・キリストが地上に来られたのは、実はここに意味があるのだと私は考えております。私たちが復讐をするのではなく、相手を赦すことができるようになるために、この世に来られて、謙虚になられ、十字架に掛かり、私たちの罪を赦してくださり、そのことによって愛を示してくださったのであります。
 私はイエス・キリストが私たちの罪を赦すためにこの世に来てくださったのは、もちろん私たちが赦されて慰められるためであるという、私たち個人への出来事であるということはそれは当然そのように思いますけれど、同時に私たちが赦し合うためであったのだというふうに考えています。私が考えているというよりも聖書にそう書かれているわけであります。
 「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい(エフェソ4:32)」。これはエフェソの信徒への手紙の中の言葉です。それと非常に似た言葉で、コロサイの信徒への手紙3章の13節の言葉ですけれど、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」。このように聖書に書かれています。
 「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」。イエス・キリストがこの世に来られたのは、私たちの罪を赦すために十字架に掛かってくださるためでありましたけれども、しかし、そこで終わることではない。私たちも赦し合う者とならなければならない。そのために奮闘しなければならないということを聖書は教えています。
 主の祈りの中でも、「われらが罪を赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈ります。今日のメッセージはイエス様の山上の説教からお話ししていますけれども、山上の説教の中心といえる「主の祈り」の中の6章12節の言葉であります。
 私たちがいつも祈っている「主の祈り」は文語訳ですけれど、新共同訳聖書の言葉では、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」であります。「赦しましたように」と過去形の言葉になっています。原文のギリシャ語が過去形なので、新共同訳ではそのまま過去形になっていますが、しかしイエス様が話されていたアラム語では現在形とか過去形ということが余りはっきりしない言語なんです。ですからイエス様が本来教えられたこの願いの祈りは、私たちが赦されるということと私たちが赦すということが、どちらが先ということではなく同時に行われるということであり、表裏一体であることを意味しているのであります。
 ですから私たちが通常祈っている文語訳の、「われらが罪を赦すごとく、我らの罪を赦し給え」というのは、イエス様が日常で語られたアラム語でのものを想定しているものでありましょう。主の祈りにおいても、私たちが赦し合うことの大切さが祈られているわけであります。キリスト教、聖書の教えは、「私たちが赦された」では終わらないですね。赦し合うというところに向かうことを聖書は教えているのです。つまり復讐をしない、柔和な人になりなさいと言うことであります。というものの「赦し合う」ということはなかなか大変なことである教えであります。そんなに簡単にできると考えない方がよいのは当然であります。
 しかし、イエス様が説かれていることは、これは私たちに与えられている一番大事な使命であります。私たちはお互いの中でこのことを実践できるようになりたいと思いますし、世界が復讐のやり合いをしなくなるように祈ってまいりたいと思うのです。
 私はアメリカの大統領が、就任式の時に聖書に手をおいて宣誓をするアメリカの大統領が、9・11テロのあと、「大変な攻撃をされた。でもイエス様は復讐してはならないと説かれている」と言って、アメリカ国民を説得して欲しかったと考えています。そんなことはできるわけがないと言われたことがありましたが、私はそう考えています。
 しかし、そのように私たちが考えるならば、まず自分自身が他者を赦す者、復讐をしない者、柔和な人にならなければならないと思います。お祈りいたします。

 神様 今朝は愛知東地区の講壇交換の礼拝で、岡崎茨坪伝道所において礼拝をささげ、御言葉に聞くときを与えられて感謝いたします。イエス様が語られた言葉を私たちがかみしめつつ、愛の事柄をなさせてください。今週1週間の日々をお守りください。主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。

                                    アーメン

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