2016年7月31日 島しづ子牧師の礼拝メッセージ

イエスがかたる命

マルコ 8:31~9:1

イエス、死と復活を予告する
 31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。   32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。   33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」   34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。   35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。   36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。   37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。   38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
 9-1 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 7月26日未明に、相模原市津久井やまゆり園で19名もの方が殺された事件が起こりました。福祉に携わってきた人たちが公式な見解を出さないというのはどうかという意見もありました。いろいろな事を考えておりますが、すぐに浮かんだ思いは、あの容疑者はベッドに横たわっている一人一人の障がいを持った人たちと“本当に出会う”ということがなかったんだなと思いました。マスコミの第一報を受けた時に、私はその施設が入居者を非人間的に扱っているのではないか?職員も疲れ果てているのではないか?と思いましたが、その後の報道なので、入居者の方々の親族の言葉、写真の様子などから、最初に想像させられたよりもずっと人間的な施設だったと知りました。報道ひとつ、また自分の先入観で事件の概要を限定してしまう危険を感じました。 
 重度の障がいを持っている方のお世話をするとか、認知症を患っているご老人の世話をするとかというのはとても大変なことです。けれども、一人一人のお世話をする中で、その方の持っている人間性の輝きのようなものが現れる瞬間に立ち会うことがあります。そういうことを体験しながら、言葉を越えた形で通じ合うものを感じ、誰もがそうであるように他者から尊重されたいと願って生きていることを知らされてきました。時に起こる不当な扱いに抗議できない、その苦労や悲しみを担って一生懸命に生きている人として出会ってきました。殺されていい命とはとても思えません。

 6月の末にフランスへ行って、ジャン・バニエのリトリートに参加してきました。ジャン・バニエもラルシュホームを始める前はフランスの精神病院や障がい者施設に閉じ込められている人たちに出会いました。50年以上前ですから、大勢の方が入所していて、親身な声をかけられることなく、機械的なお世話を受けて、働いている人たちも疲れ果てていたのでしょう。
 ジャン・バニエがある時、見聞したこととして、どこかの病院で入所している人たちを並べて、裸にしてホースでシャワーをしていたという話をしました。一人の人間としての尊厳はないままに扱われている。そのような状況に生きていた人々を見たジャン・バニエは、この人たちと一緒に地域で暮らしていこうと思い、ラルシュ・ホームを始めました。彼は賢明にも、「すべての障がいを持った人たちがラルシュホームで暮らすことがいいとは思わないし、それは私たちには不可能だ。だから、私たちは『徴』になろう」と言いました。
 ラルシュ・ホームではアシスタントとコア・メンバーと呼ばれる障がい者が家族のように暮らします。そのような共同生活は問題がいっぱいあるけれど、少人数で暮らしていくとことによって、意思の疎通ができない、そして暴力を振るう人たちが変わっていきました。彼らの暴力はかつて彼らが受けた暴力の模倣であったり、日々耐えられない怒りの表現だったりしました。
 ラルシュ・ホームでの経験は、コアメンバーと密接な関係を生きるアシスタント自身にもそういう怒りや経験があるということを見出し、その解決が焦眉となりました。解決への道を探る中で、この社会の暴力性、歴史的な暴力の連鎖についても気づかされてきました。ジャン・バニエが第二次大戦後、ヒットラーの障がい者虐殺やユダヤ人虐殺、広島・長崎の原爆投下などの方に接して「なぜ、人間が人間に対してこのようなことができるのか」と震撼して、軍人をやめ、哲学を学び、やがて弱者そのものである知的障がい者と共に生活を始めたことは預言者的だったと思います。

 今回、ジャン・バニエと再会した時のことです。私がトロリー村のラ・ファームと呼ばれるリトリートハウスに行ったときに、同じミサにジャンが出ていました。ミサのときに、〔平和の挨拶〕と言って、何人かの人と握手をするのですが、私がジャンの斜め後ろくらいにいたものですから、ジャンが私を認めて握手してくれました。二年ぶりの出会いでした。そういう時は、ミサのあと駆け寄っていってお話ししたいものじゃないですか。でも彼はミサが終わると誰よりも早くチャペルを出て行きました。長年の経験で、そこに留まっていたら次から次へと話しかけられて、88歳の自分の身体が持たない。だから誰にもつかまらないように外に出るんですね。あるいは会見の予約があたったのかもしれません。
 翌々日、予約して頂いた時間にジャンの自室を訪ねました。時間通りにベルを押し、しばらく待つとジャンが出てきて門を開けてくれました。腕を広げてくれている彼の胸に飛び込んだら、ジャンがよろめいてしまい、気恥ずかしくなりました。それから夢のような15分ほどが過ぎて写真を撮ってお別れしました。その報告をコーデネートしてくれた人に「わたしたち15分ほどで会見が終わりました。30分もかからなかったです」と言うと「島さん、ジャンとの会見は普通、15分です。深刻な相談は30分。共同体などの複雑な場合はもっと時間を取ることもありますが。どうして30分なんて思い込んだのですか?」と厳しく言われ、「あれ?困ったなあ。なんで30分って思い込んだのだろう」としょげていたら、その方は「でも、ジャンは賢いから大丈夫。時間が来たら、さりげなく示唆して終わりにするから」と言いました。時間を忘れた者に「あなたと話す時間はない、帰ったら」などと言葉にも態度にも出さないで、面談を受けた者が満足してランデブー(仏語 rendez-vous 会う約束)を終了すると言うのです。これまでも、私のランデブーの前に深刻な表情の神父が待っていたり、シスターがいたりしました。88歳の彼に話を聞いてもらうために多くの人が集まってくるのです。
 この間、若い友人牧師が、「島さん、ジャン・バニエと何を話したんですか」と聞いてくれました。「ジャン・バニエは、私のことを見つめて、事業がどうということではなくて、それであなたの気持ちはどうなのということを聞いてくれた」ということを話しました。するとその牧師は、「自分が先輩たちに、先輩が尊敬する先生のことを聞くと、その先生はお弟子さんがたくさんいても、お弟子さん一人一人が、『自分が先生から一番愛された』と思っているようです」と言いました。それに近いものがあるなと思いました。ジャン・バニエは世界中の人が会いたがる人です。それでも私のことも覚えていて案じてくれているということも感じます。ジャン・バニエのことをイエスのようだと言う人もいますし、私もそういう面があるなと思うのです。

 イエスは何者?
 今日の聖書の箇所の少し前のところで、「イエスってどういう人なんだろう」と、巷の人たちがどんな噂をしているのか、とイエス自身が弟子たちに聞いています。「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「預言者の一人だ」と言ったりしていると弟子たちは答えます。「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と聞いたら、ペテロが「あなたはメシヤです」と言います。私たちはこの箇所を読むと、ペテロはやっぱりイエスの本質を衝いていたんだな、と受け取ってきました。それをイエスは評価しながら、でも今はそのことを黙っていなさいと言ったというふうに、この聖書から読み取ってきました。
 田川建三は、「新約聖書 訳と注1 マルコ福音書/マタイ福音書」の中で、この箇所を解説して、イエスは自分のことを預言者の一人だとか、エリヤだとかメシヤだとか言われることを全然喜んでいなかった。口止めしたというよりも、叱りつけ、そんなことを話題にするなと言っていると記しています。

 聖書を記した人たちも私たちも、イエスってどういう人?と考えます。新約聖書を記した人は、イエスの4000人の給食や5000人の給食を記して、エジプト脱出の英雄モーセを想像させようとしたのかもしれません。そしてイエスが病気の人を癒し、死んだ人をよみがえらせたというのも、旧約聖書の中で、エリヤやエリシャがした出来事を思い起させるわけです。ところが、「メシヤ」だと言われたときに、イエスがその話題を禁じたと言うのはなぜでしょうか?
 その後で冒頭にある聖書の箇所が続きます。イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と語ります。モーセもエリヤも、洗礼者ヨハネも、この世では恵まれなくて、ヨハネなどはその最期も悲惨でした。
 イエスを「メシヤだ」と言った時、ペテロたちはイエスがこの地上を支配して、成功を収めるというイメージを持ったのではないでしょうか。それに対してイエスは、「いや殺される」と言うわけです。これはペテロや他の弟子たちにも、受け入れることができなかったでしょう。この世での成功を夢見ている彼らにとって、イエスが議会で断罪されて殺されるということは受け入れることができませんし、自分たちの希望は無くなってしまいます。それで、イエスを諌めるペテロです。このペテロをイエスは「サタン」と言います。そして「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱ります。
 そのあとも有名な聖句ですが、この『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである』と言っています。
 弟子たちばかりでなく、私たちは自分の命をいかに長らえさせようか、この世でどうやって賞賛を勝ち取ろうかと生きています。でもイエスは、排斥され殺されるということを弟子たちに語ることによって、「あなたたちの期待しているものと、わたしがあなたたちに示し、あなたたち自身にも歩んでほしい道は違うのだ」、ということがここで語られているのではないでしょうか。
 9章の1節まで選ばせて頂きました。この箇所の「神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」を、私たちは「ここにいる人たちの中には、終末が来るまで生きのびて神の国を見る人がいる」と祝福の言葉のように受け取ってきました。けれども田川健三は~自分の命を投げ出さなきゃいけないようなときにも意地汚く命に留まって、終末が来るときまで何とか生きのびようと思っている人がここにいるよ~というニュアンスだと解釈しています。それはある意味では叱責に近いイエスの言葉だとも田川建三は言います。
 そのように解説されますと、私たちがこの命をどういうふうに使うのか、ということを考えさせられます。イエスの肉体の「命」は十字架に掛かって失われました。しかし私たちの心の中に生きているイエスがいます。肉体の「命」と、もう一方では人々の心の中に受け継がれて、その人を生かし、次に続く人たちを生かしていく「いのち」とはなんでしょうか。

 沖縄の高江で
 7月10日の参議院選挙の翌日、沖縄北部、やんばるの森にある高江でヘリパッド工事が強行され、皆さんも心を痛めていらっしゃると思います。辺野古も那覇から行きますと車で1時間以上かかりまして、とても遠い所です。その辺野古からまた1時間以上車で行ったところが髙江というところで、ここにジャングルのような森が広がっています。その中に広大な米軍基地があり、海兵隊の訓練が行われています。そこに「ヘリパッド」という、オスプレーの離着陸帯がもう二つ作られてしまいました。あと四つ作るというのが防衛省の方針です。
 辺野古での新基地建設工事が一見、中止されている中で、髙江に機動隊員が千人以上も遣わされて、座り込みの人たちを排除して工事が再開されてしまいました。高江の住民は150人ほどとのことです。静かな自然豊かな生活を願ってそこに住んできたのに、オスプレーの飛行による危険だけでなく、騒音で眠れなかったりして住民の方々は悲痛な叫びをあげています。オスプレーはアメリカ本国では、騒音のゆえに住民のいるところでは使用できません。そういうとんでもないものを沖縄に配備して危険と騒音をまき散らしているのです。
 髙江の森と生活を守るたたかいを十年以上もしてきた方々がおられます。もちろん、子どもたちもいますが、赤ちゃんだった人が10歳に以上になり、オスプレーの騒音のために住めなくなっていて、一家が離れ離れになって避難して生活しているということを聞きました。髙江の人たちがこういうたたかいをしながら、「決してあきらめない」と言い、「自分たちは一人じゃない、一緒にたたかってくれる人たちが必ず来る」と言い、実際に大勢の人たちが沖縄各地や本土から駆けつけています。
 本当に少人数で髙江に座り込んでいた人々の中に、佐久間さんという方がいました。工事車両の入るゲート前にコンテナのような車の中に住んで、夜も昼も髙江のゲート前で暮らしていました。この方が私たちが訪れるといろいろ説明して下さいました。2年ほど前に亡くなられましたが、高江のことを思うたびに佐久間さんの姿と声が思い出されます。
 髙江と辺野古のたたかいの歴史を振り返ると必死で工事を止め続けた方々の姿が思い浮かびます。亡くなった方もいます。その人たちの姿を思い浮かべながら、あの人たちは何のためにあんなに必死だったんだろうと思います。多くの方が現役の仕事を終えていました。人々が考えていたのは、沖縄の若者、これから生まれ育っていく未来の子どもたちに、米軍基地は残したくないということでした。
 10年ほど前、髙江のヘリパッド工事の時に、防衛省が工事を強行しようとしました。人々が座り込んで阻止していた映像があります。防衛省の役人に、教師だった大西さんが語っている姿があります。「あなたたちはこの工事をするのが任務だと言っているけれども、自分たちにも任務がある。自分たちはこの沖縄で(この映像は戦後60年目に作られたもの)60年前からひどい目に遭わされてきた。戦争の時もそうだったし、今も基地のためにひどい目に遭っている。それは私たちの代で終わりにしたい。次の世代に渡したくないんだ。それが私たちの任務だ」と激しく抗議していました。生活の糧としての基地整備の仕事と、次世代の人たちの命を守っていくという仕事がぶつかっているのです。

個人として出会う
 イエスが奇跡を行ったときに、注目したい出来事があります。死んだ少女の所へ行った時に人払いをして少人数でその少女と向き合っている。あるいは今日の聖書の前の箇所では、盲人を村の外に連れ出し、会話をして、癒していく。耳と口の不自由な人に対しても群衆の中から連れ出し、会話をして癒すということをしています。これは大勢の人たちに「癒されなさい!」とか、「障がいが無くなるように!」と言っているのではなくって、一人一人に向かい合って、一人一人のために時間を取って、その人に語りかけ、その人の語る言葉を聞いて癒しが起こっているということではないでしょうか。
 ジャン・バニエのことをお話ししたのも、そういうことじゃないかと思うのです。イエスは奇跡を行いましたし、死者も病気の人も障がいを持った人も癒しました。その人たちにとって印象的だったの癒されるということ以上に、自分のために時間を取り、自分の声に耳を傾け、そして自分の答えを待って何かをしてくれる人がここにいる。それは自分の声なんか誰も耳を傾けてくれない。見捨てられている、自分は生きていても仕方がないというふうに思いこまされていた人たちにとって、これこそ奇跡的な出会いだったと思うのです。

 人は枠に収まらない
 安富歩という東大の教授が50代前後に女装をするようになりました。それまでは鬚面の厳つい男性の姿でした。ある時自分が女性の下着を身に着けたらすごくフィットしていいなと思って、それから女装をするようになって、次第に自分は「性同一性障害」だったんだ、男の格好をしていたけれども、心は女性だったということが分かったと言います。でも、安冨先生の面白いことは、自分は「性同一性障害」というふうにレッテルを貼られるのを拒否するというのです。それはどういうことかというと、そもそも人間という者は一人一人違うのに、この人は男性だとかこの人は女性だとかあるいは性同一性障害だとか、そんなふうに人を枠に当てはめていくこと自体が無理なんだ。私は、心は女性、自分が女装をする時にとても安らぎを覚えているし、そして男性の顔をしていた時には表情もなかったし、感情を表すことができなかった。でも女装をするようになってから、表情もすごく豊かになった。つまり自分は50年間ずっと男性を装ってきたんだと語っています。
 私もセクシュアル・マイノリティー差別問題に多少関わってきましたけれども、マイノリティーの人たちを理解し、差別を止めるというよりも、そもそも私たち多様な人間をカテゴリーに当てはめて、その当てはまらない人たちを枠外に置いている仕組みや考え方自体に問題があるということではないかと思うのです。
 そういう意味では、イエスという人は、ユダヤ人の男性が正規なユダヤ人共同体の構成員だと言われているときに、女性の使徒も持ち、ユダヤ教の共同体では同じ食卓に決して着くことができなかった障がい者や病者という人たちと共にいたというときに、(イエスにも限界はあったと思いますけれども)人間を民族とか男・女とか、障害のあるなしで区別する文化に対して、イエスは境界を越えていくということを、私たちに示しされたのではないかと思います。
 そして「イエスってどういう人なの?」と言われたとき、どういうふうにお伝えしたらいいのだろうと悩みます。十字架の死ということもありますが、イエスがそこに追いつめられていったのは、この社会が、人間をカテゴリーに入れて息苦しくしていく制度そのものに疑問を呈し、(別に拳を振り上げるというのではなくて)その境界の中に入り切れない人たちと付き合っていくということによって、その時代の秩序を大幅に壊そうとしてしまったのではないか。
 その結果、体制に立つ人々からは憎しみの対象となり、結局は十字架に逐いやられていくということになったと思うのです。何とかこの時代を自分だけは生きのびたいなと思うと、この世の流れに逆らわず行くしかないような時代です。でもイエスは、「あなたの命はそういうことのために使わなくてもいいんだよ。そのことによってあなたの地上的な「命」は抹殺されても、真実のあなたの「いのち」はあなたと出会った人たちの中に生きていく」。そのことがイエスが自分の受難を前にして、弟子たちに語りたかった「いのち」のことではないかと思います。お祈りをいたします。

 神様 世界中が強欲に動いています。地上をご覧になるときあなたの御心を理解しない現実があります。私たちもその一人です。どうかイエス様が示してくださいましたように、一人一人のいのちを尊び、そのいのちが十分に発揮されるようにお互いに助け合って生きていくことができるようにしてください。私たちの罪の故に不当に扱われ、苦しんでいる人たちが沖縄に、フクシマに、そして世界中にいます。あなたはその方々を見守っていてくださると信じておりますが、一層あなたのみ手を置いてください。この願いと感謝、主イエス・キリストの御名をとおして御前にお捧げいたします。アーメン

<<説教・メッセージの記録 | イエスがかたる命  
inserted by FC2 system