2015年11月15日 召天者記念礼拝 島しづ子牧師の礼拝メッセージ

愛し、愛されるために -いのちは生き続ける-

ヨハネ福音書 3:16
 

16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

今日は亡くなられた皆さんにつながれている、愛する方々のことを思いながら、今日のお話を準備させていただきました。
 イエス様がたびたびお話になった言葉で、「死んでも生きる」とか、「永遠の命が与えられるのだ」と書いてあるんですけれど、「神はその一人子をお与えになったほどに世を愛された。一人子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と書かれておりますけれど、しかし、皆さんの愛する人たちは死んでしまいました。[永遠に生き続けていく]というのは私たち人間にはできないわけです。
 柏木哲夫という精神科医の講演がありまして、その中で柏木先生は「生命」と「いのち」ということについて、生命といのちが違うのだということを説明してくださいました。生命は限りがある。閉じられたものであり、客観的なものだ。心臓につけられている心電図がフラットになって、「この方はお亡くなりになりました」と医師が告げることができる、限りがあり客観的なものだということです。
 しかし、ひらがなで書かれる「いのち」は、無限なものであり、開放されたものであり、主観的なものであるというふうに語っておられました。柏木先生は中川米三という、たぶん先生も学ばれたお医者さんからこんな言葉を紹介されました。『私の生命はまもなく終焉を迎えます。しかし私のいのち、即ち私の存在の意味、私の価値観は永遠に生き続けます。ですから私は死が恐くありません。』
 中川先生というのは、日本で最初に行われた心臓移植に反対されまして、医の倫理ということについてずっと考え続けられ、多くの本を書かれた人ですが、『これまでの医学は、生命は見てきましたがいのちは見てこなかった。これからの医学はいのちも見ていく必要があります。』というようなことを紹介されました。
 私はここから[永遠のいのち]ということについて考えることができるのではないかなというふうなヒントを頂きました。

 私も皆様も、愛する人を天に送ったとき、悲しみの儀式、葬儀からその後一週間、あるいは一年間、ある人にとって数年間。悲しみの儀式をしてきたように思います。ユダヤでは、旧約聖書の中に創世記の50章10節に、ヨセフは父の葬儀のために7日間、儀式を行ったというふうに書いてあります。
 ユダヤ教の葬儀の実際は、私は見たことはありませんが、書物によりますと、ユダヤ教では葬儀を出すとき7日間シバという名前で喪に服すということです。そのシバの期間は弔問客を自宅に招き入れて、家族は堅い床に直接座って上着を切り裂いて悲しみを表すそうです。聖書の中に、悔い改めたり悲しみを表現するときに上着を裂くという行為がありますけれども、それが今も行われているんでしょうか。実際この7日間は2日間にも短縮されているようですが、伝統的にはシバの期間1年間は家族は喪に服して、この間は結婚式とかお祭りとかパーティーなどのお祝い事には参加しないそうです。
 昔の日本もそのように行ってきたし、してきたのではないかなと思うのですが、このできごとの中で注目すべきは死者の友人や親戚は、この親しい人を亡くした人の家へ行って亡くなった人のついて語り合い、悲しみを分かち合い、慰め合う。訪問者の役割は遺族を労わるということだったようです。その家で軽い食事をいただいたり、亡くなった人のことを話し合ったりする。これが葬りの儀式の大事な要素でした。
 旧約聖書にエレミヤ書という書物がありますが、エレミヤという人は間もなく自分の国がバビロニアに滅ぼされてしまうということを預言し、実際そのようになり、そのような不吉な預言をするということから、ユダの王様にもまた人々からも忌み嫌われ、捕囚の間には殺されそうになったりしました。このエレミヤに神さまが言った出来事として、[あなたは結婚してはいけない。この国は滅びるのだし、家族というようなものを持って労わり合ったり、もしその家族が死んだとしてもこのようなことが起こるのだ](エレミヤ16:2~8)ということを言っています。『彼らは弱り果てて死ぬ。嘆く者も、葬る者もなく、土の肥やしとなる。彼らは剣と饑饉によって滅びる。その死体は空の鳥、野の獣の餌食となる。』(16:4)
 つまりこの国はやがて滅びてしまうし、死んだ者を葬ってくれる者もいないんだ。死体は空の鳥や野の獣の餌食となるんだ。そしてそれに続いて、『死者を悼む人を力づけるために、パンを割く者もなく、死者の父や母を力づけるために、杯を与える者もない。』(16:7)つまり遺された人たちが悲しみに沈んだとしてもその人を慰めにきてくれる人もいないし、パンを割いて与えてあげる人もいないし、ブドウ酒を与えて元気をつけてくれる人もいない。このような時代が始まるのだということを神さまはエレミヤを通して語らせました。これほどの悲しみがあるだろうかと私は考えます。
 死者。
 愛する人を喪ったとき、私たちは、親しい人たちの訪問を受けたり、慰めの言葉を聞きながら、この出来事を次第に受け入れてやがて立ち直っていく、ということができます。私が夫を早くなくしたり、娘を亡くしたという経験のあることから、ある時堀川伝道所で息子さんを30前で突然亡くした方がいらっしゃいました。役員の多くの方が、「島先生は経験者だから、その人のことを慰めることができるんじゃないか」というふうに私に言いました。私はそのときに、「私にだってできない。それぞれの死はそれぞれの死であって、私がその人のことを慰めることはできないんだ」ということを語ったことがあります。
 しかし、ずっとその言葉が心に残っておりまして、自分は夫や娘を亡くしたとき、その期間をどのように過ごしてきたんだろうかというふうに思い出してみました。そして分かったことがありました。定期的にお花を届けてくれた人がいました。また声を掛けてくれた人がいました。まったく自分が一人ぼっちの孤独の中に置かれていると思っていたときに、誰かがいつも何らかの形で助けてくれました。ですから孤独でまったく助けがない状況にずっといたということはありませんでした。そのような経験の中から、悲しみの中にある人たちに必要なものは、「あなたはひとりぼっちではありませんよ。あなたのことを亡くなった人は置き去りにしたように見えるかも知れない。そしてあなたの悲しみを誰も分かってくれないと思っているかも知れない。でも、あなたはひとりぼっちではない。」そのような多くの人たちの慰めの愛によって、私は生き延びてくることができたなというふうに思いました。
 亡くなった人を悼み、悲しみの儀式を経て、また日常生活に戻っていく。「ブリーフケアー」というふうに言いますが、しかし、戦争中、あるいは国が滅びてしまうというような、エレミヤのような時代でなくても、実はこの亡くなった人を悼むということが素直にできない現実もあります。亡くなった人との間にわだかまりがあったり、また亡くなった人と連なっている親族や家族との間にわだかまりがあったり、さまざまな出来事によって、亡くなった人のことを偲び、そして心から泣いて悼むということができない現実があります。
 あのヤコブ、後にイスラエルと言われたヤコブが12人の子供を持ちながらヨセフを偏って愛したために、ヨセフのことを10人の兄たちは嫉みヨセフをエジプトに売り飛ばすというような悲劇を行いました。それほどでなかったとしても、私たちの中にも、亡き人の愛情のかけ方があるいは愛の表し方が偏っていたということによって、両親のこと、あるいは親族のことを心から悼んで、その人のことを許すことができないという現実もあります。あるいは亡き人との関係の中で、傷つけられたような出来事、許せなかった、それは「愛されなかった」という出来事、言葉に集約できるのではないかと思います。
 私たちはそれほど愛にこだわり、そして私たちの問題の中心は、そこにあると思います。若い方たちの悩みを聞きながら、私は自分自身の息子や娘の歎きを聞く思いがしました。そんなにも愛を求め、そんなふうに感じ、そんなふうに傷ついていたのか。時々その話をしてくれた人たちに、私があなたのお父さん、お母さんに代わったつもりで謝るねと言って、「ごめんなさい、私はあまりにも力のない、配慮のない親だった。決してそんなつもりではなかったんだけれども、あなたをそんなにも傷つけていたなんて本当に許してほしい」というふうに語ってきました。
 そして思ったのは、私も私の親たちもそしてその親たちも代々、いかに[愛し方が下手であったか]ということです。「愛する」ということを伝える仕方があまりにも下手であったということです。愛はあったけれども、それを子どもたちや周りの人たちに伝えることができなかった。

イエスと弟子たちのことを振り返ってみたいと思います。イエスが死んだとき、おそらく弟子たちは正義が滅びたような悲しみを抱いたと思います。正しい人が何故死ななくてはならなかったのか。そしてその不正義に弟子たちも裏切りをしたということで、自分たちもその不正義に荷担したような悲しみを持ったと思います。ですから彼らは2人、3人あるいは11人でたびたび食事をしました。
 エマオの途上ではイエスと思わずに一緒に歩いてくれた人がいました。そしてその人と一緒に食事をしたときに二人の弟子はイエスがここにいるということを発見しました。
 またガリラヤ湖で、漁師だった弟子が、まったく漁がうまくいかないで失望の中にあったとき、イエスと思われない人に声を掛けられ、網を投げ、たくさんの魚が捕れました。そして浜辺に立って自分たちに声を掛けた人がイエスだと気がついたとき、イエスは来て、パンをとって弟子たちに与えられ、魚も同じようにされたとあります。
 イエスの死を悲しんでいた弟子たちの中に、イエスが立ち現れたということです。彼らは一緒にいて、「自分たちはとんでもないことをしてしまった。イエスが死んでしまった。あのときどうだった。この時どうだった。」そんなことを一緒に語り合いながら、にもかかわらず、いかに自分たちがイエスに愛されたかということを思いおこしました。いかに自分たちがイエスを理解していなかったかということも思いおこしました。
 私たちは幸いなことにひとりぼっちではなく、茨坪伝道所に連なることによって、お互いの愛する人たちの死を悼み、ともに語り合い、ときには天にある人たちの面白かったことを笑って過ごして参りました。そして亡き人々の生命はここにはありません。
 しかし、天にある人たちの「いのち」は私たちの中に生きています。あの人たちが私たちに与えてくれた愛、ともに暮らした日々の思い出、苦しみや悲しみ、そして喜びをともに味わった日々、そして後悔もあります。後悔はもっと素直に愛を伝えるべきであった。あるいは文句ばっかりいうのではなくて、あなたが私のそばにいてくれて本当にうれしいということを、またそのように、遇すべきだったという後悔です。
 いろいろな人が死に行く人の最後に思う言葉というふうにして、紹介していますが、死に行く人の死に際しての一番の後悔は、もっと一番身近にいた親しい人を愛すべきであった。そしてその愛を伝えたかった。仕事ばかりではなく、愛する人たちとともに過ごすべきだったということが最大の後悔だそうです。
 天にある人たちもこの後悔をし、私たちもまたこの後悔をしながら、しかし、イエスが弟子たちの中に生き、今私たちの中に生きているように、愛する人たちも私たちの中に生きています。
 私は時々亡くなった人たちと心の中でよく話をしていて、「あの人は生きていたんだっけ、死んでしまったんだっけ」と自分がおかしくなってしまったかなという感じに陥ることがあります。そしてまた神さまとも心の中で話しています。
 私の中に、ここに飾られた人たち一人一人が生きていますし、神さまも、そしてイエス様も生きています。この召天者記念日に際して、もう一度私たちは互いに生かすものが何であるかということを確認したいというふうに思います。
 もし、皆さんの中に天に送った人たちについて後悔があるならば、そのようなこともともに語り合いながら、そのことを通して私たちの後悔も受け入れ、愛する人たちに本当に伝えたかった思いを語り合いながら過ごして行けたらと思います。神さまはイエスという人を、このことを私たちに教えて、そして私たちを救うためにイエスを送ってくださいました。イエスを通して与えられたいのちを、今もう一度受け取ることができたらと思います。お祈りをいたします。

神さま 私たちは先に亡くなった方々を通して、本当に多くのめぐみをいただきました。心から感謝いたします。その多くの愛に対して、十分に応えることのできなかった後悔もあります。またわだかまりもあります。神さま 本当はお互いに心から愛し合い、慈しみ合い、ともに日々を過ごしたかった、と天にある人たちも私たちも思っています。どうかそれぞれのわだかまりをあなたが受け止めてくださり、またあなたの恵みの中にそれぞれが元気に一歩を踏み出していけるように助けてください。この伝道所に連なることによって、それぞれが大いなる慰めを与えられてきました。またそれぞれの家でひとりぼっちで置かれたようなときにも、あなたが手を差し伸べて、励まし導いてくださいますように。
 私たちの時代はいっそう困難に向かい、ここにいる幼子たちの将来も不安の中にある時代です。神さまどうかこのような地上を憐れんでくださいますように。人間の罪のために犠牲となっている人たち、悲しみに取り残されている人たち、あなたがその方々の傍らにいてくださると信じておりますが、一層あなたの助けの御手を置いてください。この伝道所に連なるお一人お一人の上にあなたの祝福がありますように。主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。 アーメン

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