2015年7月5日 佐藤直樹牧師のメッセージ

その名を聖とせよ

使徒言行録 4:5~12
 

5 次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。   6 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。   7 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。   8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、   9 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、   10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。   11 この方こそ、
『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、
隅の親石となった石』
です。   12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 

今日はまず11節にある「隅の親石」とはどんな石か、お話しします。
熊本城の石垣の写真を見て下さい。強い建物を作ることで、石垣の上に天守閣を造りました。石垣はたくさんの石を積んで作っています。
 この石垣にある「隅の親石」はどれでしょうか。角の大きな石でしょうか。いろいろな形の石が積んでありますが、この大きな石の間を埋めるように置かれた小さな石が「隅の親石」です。重力を分散させ、石垣のバランスを整える、大切な役目を負っています。これがイエスの言われた「隅の親石」なのです。「角の大きな石」のことではありません。

さて、子どもが生まれると親はいろいろな思い、願いを込めて名前を付けます。私の名前の「直樹」は「まっすぐな木のようにすくすく育つように」という願いがあったと聞いています。ただ真っ直ぐすぎたようで、周りを全く見ていないとよく言われます。
 神さまによる天地創造の物語も、創造物に名前を付けることによりその一日の業が完成し、命の息吹が吹き込まれています。創世記の冒頭では、初めに神は天地を創造され、その中で光を創造されます。
神の霊が水の面を動いていた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた(創世記1章2~5節)。
 この「呼ばれた」ことが、名付けによる創造の業でした。「名前を付ける」ことは、関係、つながりを持つことだったのではないでしょうか。神は創られた昼と夜、そして光と闇とに関わりを持ち、その関係がこれからも続いていく。世との関わりを創っていくことが、この業に続く生命、植物、人間の創造へと繋がっていきます。そして人間も自分に合うものとして、神が備えられた自らの分身としての女性へ名前を付けることで、神の創造の業が継続したことが創世記2章まで記されています。

主イエス・キリストの弟子である使徒たちの宣教は、主の名を伝えることでした。イエスこそが神から遣われ、神が死から復活させられたメシヤ・救い主であること、神へ立ち返り、悔い改めるならば新しい命を受けるならば、神の命としての聖霊を新しい命として受け、神の守りのうちに生かされる者となることを約束されました。ペトロが宣教の始めにこう語り、宣教の道を歩み始めました。
 しかしこの〈主を語る〉、ことは、イエスが行ったようにまずユダヤの神殿を巡回して行われました。全く新しい教えであるのに、何故ユダヤの神殿で語られたのか。一つには多くの人々が集っていたこととのみならず、神殿が神の場所であるという理解も存在していたと思われます。
 しかし、新たな教えを持ち込まれることを良く思わない人たちもいました。彼らは何がどう違うのか、この宣教の言葉をしっかりと聞いていたのであろうと理解しています。使徒言行録の4章では、祭司長たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々がペトロとヤコブが捕らえられたことを伝えます。いずれも当時のユダヤの保守派の人たちでした。ユダヤの議会は夜開かれなかったので、彼等は一晩、使徒たちを拘束しました。
 翌朝、ユダヤ人の指導者たちが集められ、二人の使徒たちへ「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」(4:7)と尋問しています。「ああいうことをした」という非常に曖昧な問いをしています。なぜ復活を告げたのか。あるいは、なぜソロモンの回廊で語ったのかなど、何か具体的な事柄を責めていたのではないのです。この問いは使徒たちに「何の権威によって」なのかその「権威」を解き明かす機会を与えてしまっています。論敵によってこの問いを生じさせ、答えを導くというのはルカの編集の手段なのかと思います。
ペトロは既に語られたことを繰り返し語りました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを」(2:36)、「神がこの方を死者の中から復活させられた」(3:15)事実を「ナザレの人、イエス・キリストの名によって」(3:6)私たちは語っているのだと、繰り返しています。この出来事を神の真実として、このほかには救いはないことを確信し、大胆に語っています。

今日は二つのことに注目してお話ししようと思います。
一つは冒頭にお話しした、「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」という詩編118篇の言葉。もう一つは、イエス・キリストではなく、「イエス・キリストの名によって」ということを強調していることであります。12節を見ますと「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」とあります。「名」ということを強く伝えています。
 この言葉の前に、詩編による隅の親石の言葉が引用されています。ただ元の詩編を見ますと少し言葉が違っています。詩編118篇22節ですが、「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」とあります。「退けた石」です。捨ててはいない。「やがて使うであろうと思って、横に取り置いた石」との感覚です。しかし使徒言行録での引用は「捨てられた石」になっています。引用句にある家を建てる者に捨てられた石というより、詩編詩人の原意は「大切なものとして取り分けて置いていた」のだったかと思われます。
 イエスは「十字架につけろ」と叫んだ民衆によって一度は捨てられ、葬り去られた。しかし神はそれを陰府から拾い上げた。そして神の家を建てるために拾い上げて、小さくても形が悪くても欠かしてはならない最も大切な石、もしそれが無ければ土台が揺らいでしまうであろう要石として用いられた。そのために神は主イエス・キリストを復活させられたのだということをペトロは語っているのではないでしょうか。この神の家とは具体的な建物ではなく、共同体であるとか、信徒の集団、あるいは著者ルカが最終的に本書で目指した信徒集団としての教会の形成という意味合いも含まれています。

もう一つの「名前」についてです。ペトロはすべての業が「イエス・キリストの名によって」なされたと言います。決して「イエス・キリストによって」ではないのです。「名」によってなされたと言います。この「名」とは何なのでしょうか。
 改めて主の祈りをみると、三つの「み」と、それに続く三つの「わ(我)」があります。
三つの「み」とは、
「み名を崇めさせ給え」
「み国を来たらせ給え」
「み心の天になるがごとく地にもなさせ給え」です。
続く三つの「我」とは、
「我らの日用の糧を今日も与え給え」
「我らに罪を犯すものを、われらが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」
「我らを試みに合わせず、悪より救い出し給え」です。
 この三つの「み」は、いずれも神と人との関係を求め祈っています。続く三つの「我」では人の関係についての祈りです。
 私が主の祈りの中で好きな所は、三つの「我」の一番最初が「日用の糧を与え給え」となっているところです。簡単に言えばお腹を満たしてください、あるいは魂を満たしてくださいということを最初に人間が求めることとして祈っている。ちょっと俗っぽいなと思えることもありますが、私はこの日用の糧を求める祈りが最初に来ていることが好きなのです。
 主の祈りは、神さまに対する祈りに始まり、人間の生活への祈りに変わっていきます。世の中の悩みの大半は、人間関係、金銭関係、健康に集約されるのかなと思います。色々な悩み事がこれらのどこかに絡んで、関係するものではないでしょうか。
 人間に対する祈りが切実であるからこそ、まず神に対して祈らねばなりません。神の計画にあって人間がいかに生かされるのか。神と人間を切り離すことができないように、神に対する祈願と人間に対する祈願というのを分けることはできません。逆に人間に対する祈りを人間の問題に限定してしまい神に寄り頼むことができないとするならば、この神に対する祈りも祈ることができなくなってしまうのではないか。すると神さまとの関係が切れてしまうのではないかと思うのです。
 カール・バルトという神学者は「祈祷」という本の中でこのようなことを述べていました。
「人間の計画は神の計画に従い、人間の勝手な要求は赦されません。初めの三つの祈願は、もし後の三つの祈願がなければ決して存在しません。後の三つの祈願は初めの三つの祈願と同じように欠くことのできない祈願です。」
続いて、「後の三つの祈願を祈らない人はまじめに祈っていないのです」。神学者は難しいことを書いていると思われていますが、結構面白いこと、砕けたことも書いているのだと思います。

主の祈りに限らず祈りは「主イエス・キリストによって」ではなく「イエス・キリストの名によって」祈られています。ではこの「名」というのは何でしょうか。「イエス」というのは彼の名ですが、「キリスト」というのはファミリーネーム、名字ではありません。「救い主」という称号です。これが救い主であるキリストそのものの本質、キリストのすべてなのです。
 ですから私たちがイエス様を信ずるというとき、例えば多くの福音書にあるように〈奇跡の業が行われたから〉、〈多くの病気を癒されたから〉、イエス様を神さまの力を持っているのだと信じることではないのです。主を信じることは、なぜ神はイエスを私たちのところに遣わし、神は私たちと関わりを持ったのかということをより広く、深く求め知っていくことなのです。
このことから〈イエス・キリスト〉ではなくて〈イエス・キリストの名〉、神の業の本質によって私たちは神さまとつながっているのだということを告白するのが、「主の名によって祈る」ことです。同時にこの「御名を崇めさせ給え」というのは、「御名を聖とせよ」「御名を清くしなさい」という祈りです。神が清いとされるとき、それは神が私たちすべてを超えたものであるということを証ししています。
 神は私たちのすべてを知り、私たちが思うよりも大きな計らいを備えていてくださいます。その神の前にまことの人間になり、一切の戸惑いから解放されて今日生きる命を与えられる。この神と人間との関係こそ「聖」となのです。
 「神の名によって」、「主イエス・キリストの名によって祈る」というのは、〈どんな神さまであるのか〉、〈癒しができるのか〉、あるいは〈満足をさせてくれるか〉、〈願いを聞いてくださる神〉、という条件を消し去り、神のすべてを受け入れ、我々は神のものであるということを認め、神によって生かされるものであることを祈りの初めに告白し、決意を新たにすることなのです。
共に祈りましょう。

神よ 私たちは神の名によって祈りを捧げます。神はどのような神であるのか。癒しの神、慰めの神、平和の神、この世のすべてを治める神。このような問いかけをすべて包み込むのが、ただ主よと、そしてまたキリストの名によって祈る祈りであります。私たちはあなたの名を聖として、神のものであると区別して祈りを捧げます。さまざまな祈りがあります。願いがあります。またその祈りの中には、悲しみや嘆きや多くの苦しみを訴えるものがあります。私たちはあなたの名を、そしてあなたの業をすべて受け入れます。神が私たちの祈りをすべて受けとめてくださることを信じて、この祈りを私たちの救い主である主イエス・キリストの名によって御前に捧げます。 アーメン

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