2015年3月22日 佐藤直樹牧師の小礼拝メッセージ

真理に到る道

ミカ書 4:1~5
◆終わりの日の約束
 

 1 終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい
2 多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
3 主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
4 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。
5 どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに
我らの神、主の御名によって歩む。 
ヨハネ福音書 14:67
6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

旧約の預言は、神が救済の幻、そして顕そうとしている約束をどのように見せてくださるのか、またどのように与る者となりなさいというのか、ということを言葉として、神が選んだ人に聞かせて託したものです。同時に託された者は、神から人々に語る責務を与えられました。厳しい使命です。
 だがその言葉は決して心地のよい言葉ではありませんでした。偶像崇拝に対する神の怒り。偶像を崇拝しようと建物や像を造ったわけではないが、いつしかそうなってしまっていた。人々の間に生じていた、神への心の歪みというかズレを直していく。それは当時の体制への批判も込められていたのです。
 その歪みの結末として、預言者は国家の滅亡や神殿の破壊を告げ知らせました。王を筆頭とする権力者はその言葉に怒り、預言者を捕らえ、殺してしまったこともあったと伝えられています。
 人々はこの預言の言葉に不安を感じました。様々な預言に一つだけ共通する、欠かせない約束がありました。それは今、主の許に立ち帰るならばその者ゆえに、その者がたとえ少なくても民すべてを赦す救済の約束をされたのです。
預言者はこの約束を神と人々の間を取り持つ者である執り成し者としての使命を与えられていました。

掲題のミカ書4章はイザヤ書2章と共通する「剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする」という言葉が伝えられています。これはニューヨークの国連本部に掲げられた、平和の幻の言葉でもあります。
主の神殿の山が神の臨在の場として人々の中心となり、神の言葉に寄り従って歩む日が来る。その具体的な実現へのビジョン(幻)として、武器を農具に変えていくことが語られました。戦いの道具が放棄され、命の糧を生み出す道具とされていく。誰もが力や不安に脅かされることなく、土からの実りを自ら野の命として受け取る。これが平和なのだと、神は預言者を通して人々に語りました。

先日、私を導かれたO牧師が先週天に召されたということを聞きました。彼は担任した教会を後進に託し、改めて神学を学びたいとの思いを抱き、70歳になって農村伝道神学校に1年間聴講に来られました。今日の聖書箇所は、O牧師を通して励ましと導きをいただいた時期、教会の祈祷会にてこの預言書を学んでいたことを思い返したことによります。
 まさにこの旧約聖書の預言書を学ぶ中で、彼が一字一句、常に地の平和と神との和解を念頭に置いて、現代社会に照らし合わせ、この言葉はどのように今の私たちに語られているのか、また今の自分自身に響いているのかということを感想としてよく語られておりました。私はその姿に惹かれていきました。

もう20年も前になりましたが1994年の夏、O牧師が沖縄の教会に夏期伝道に行かれるとき、1か月半ほど滞在するのでどうぞいらしてくださいと社交辞令のお招きを受けたのです。若気の至りでほいほいと出かけ1週間ほど滞在させていただきました。今になり逆の立場で考えると、多大な迷惑であったでしょうし、大きな負担を受けてくださったと感謝にたえません。
  私自身は職場の夏休みを一週間、沖縄という初めてのところで過ごすくらいの軽い気持ちで出かけたのですが、教会に泊まるということはそういうことではありませんでした。礼拝があり、教会という信徒の交わりの場があり、また集う人々との出会いがあるわけです。ちょうどその教会は前任の牧師が退かれて次の方を探している中で、牧師が居ない状態で毎週礼拝が持たれている。茨坪のあり方としてはなんら難しいことではないことかもしれませんが、その頃の私にとっては初めて出会った教会の形でした。近隣の多くの人々が教会を支えて礼拝を続けていく。こういう場があるのだという事をその時はじめて知りました。教会を支えていく。同時に信仰を持ち続けていく。この時に受けた印象が教会の働き人になろうと促す大きな力になりました。
 沖縄は第二次世界大戦で戦いの前線となりました。そしてその後も武力による支配と、さらなる戦闘の備えが続いています。平和の道はどこにあるのかと問われ続けています。
 今の世の中は互いに力を持ち合う、力の均衡で見せかけの平和を実現しようとしています。大きな力が小さなものを押さえつけ、あるいは大きな力同士がぶつからないようにしている。たとえ力の衝突があっても、力のない弱いところ、あるいは遠く離れた場所での小さな戦いに荷担し、代理戦争の形で大国の正義を実現しようとしています。そうすることで経済力や武力を持つ国からは、戦いが起きている現実を見えず、隠されたものにしようとしています。
 しかし神は、この悪しきバランスの上で平和を造りだそうとはしていません。戦うものは全て放棄し、作り直す。そして命を生み出していくこと。武器を農具として土を起こすことで、土から命を得、その命から一人一人が生きていく。それを繰り返していくことが平和を生み出すただ一つの道として示されているのです。
  主イエス・キリストはただ一つの道を示されました。「わたしを通らなければだれも父のもとへ行くことはできない」。武器を捨て、力を放棄する。そして弱さを認める。このことが実は一番力が要る。強さが求められることです。この道こそ神が備えられた、私たちが通らねばならない道です。この道行きに神が伴われ、神の確かな力と約束があります。この約束に身を委ねていくことが、ただ一つの地に平和を実現する道ではないでしょうか。
 お祈りいたします。

神さま 私たちは弱きものであります。ですから力に頼ろうとします。ますます力を持とうとします。相手の力に勝ろうとします。しかし主よ、あなたはそのような道をまったく打ち消されました。「戦いの道具を捨て、この地を耕しなさい」。「命を作りだしなさい」と命じられました。主イエス・キリストもこの地にあって、弱さを明らかにし、全き人としてすべてを放棄し、十字架に向かわれました。捨てることは恐ろしいことであります。あなたによってでしか為し得ないことであります。どうかその勇気を私たちにほんの少しでもお与えください。語る者とならしてください。平和を実現するものとして私たちを用いください。この祈り、主イエス・キリストの名によって御前におささげします。  アーメン  (2015.3.22)

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