2015年8月2日 佐藤直樹牧師のメッセージ

平和の神の支配は地の果てに及ぶ

ゼカリヤ9:1~10
諸国民の裁きとイスラエルの救い  

1 託宣。主の言葉がハドラクの地に臨み、またダマスコにとどまる。人々はイスラエルの全部族と共に主に目を向ける。 2 それらの地に境を接するハマト、知恵に抜きん出たティルスとシドンもそうだ。3 ティルスは自分の砦を築き、塵のように銀を、野の土くれのように金を集めた。4 しかし、見よ、主はその町を陥れ、富を海に投げ込まれる。火は町を焼き尽くす。5 アシュケロンはそれを見て恐れ、ガザは大いにもだえ、エクロンも期待を裏切られてうろたえる。ガザの王は滅び、アシュケロンには人が住まなくなり、6 混血の民がアシュドドに住み着く。わたしはペリシテ人の高ぶりを絶つ。 7 わたしはその口から血を、歯の間から忌まわしいものを取り去る。その残りの者は我らの神に属し、ユダの中の一族のようになり、エクロンはエブス人のようになる。8 そのとき、わたしはわが家のために見張りを置いて出入りを取り締まる。もはや、圧迫する者が彼らに向かって進んで来ることはない。今や、わたしがこの目で見守っているからだ。  
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。

ルカ17:20~21 神の国が来る
20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

神が私たちに常に語り掛けている言葉が「平和」です。この平和は平安とも訳される言葉ですが、字のとおり、平らに和む、平らに安らかであることです。日々変わることなく朝を迎え、日中を過ごし、夜休む時を支えてくださる。一日を穏やかに過ごすということではないでしょうか。
 これは個人としての平和、平安の在り方でしょうが、では人々の間での平和・平安とはどのようなことでしょうか。簡単に思いつくのは争いごとがないこと、そして仲良く過ごすこと。これを人と人との間、よりおおきく国と国との間まで広げて考えてもよいかと、私は思っています。
聖書の時代の預言者も絶えることなく平和を、同時にその源はどこにあるかと求め続けました。それは一人ひとりの中にある。そして人と人との間にある。また国と国との間にある。そして神がそれぞれの間に立たれることで、神による平和が造られる。このことを信じ、願い、求め続けたのです。

今日は旧約聖書の小預言書からゼカリヤ書の言葉を聞きました。南北に分かれたイスラエルの内、北イスラエルは既になく残る南ユダがバビロニアとの戦いによって滅ぼされる。そして国の主たる人物は、奴隷としてバビロニアの国へ連行される「バビロン捕囚」という出来事がありました。紀元前587年のことだったとされています。しかし、このバビロニアにも更なる脅威が待ち受けていました。アッシリアというもう一つ北方にある国と戦い破れ、こちらも滅ぼされました。バビロン捕囚の40年後の538年のことでした。このときにバビロニアに捕らわれていたユダヤの人たちは解放され、自分たちの土地へ帰ることになりました。
 その後すぐに起こったことが、エルサレムにて破壊された神殿の再建運動でした。ユダヤの人々にとって神祭儀と政治の中心の場としての神殿回復であり、民族の再興をここに託したのでした。
 預言者ゼカリヤはこの神殿が再建された後、おおむね紀元前520年から518年に活動したと記述される出来事から読み取れます。
 人々は主の都、礼拝の中心地としての神殿を再建されることで、人々が主の前に集められ、主の民が再び形成されるという希望、更にはダビデ、ソロモン王時代の王国の栄華をも回復したいという幻を持っていました。その幻が実現しようとする中で、神殿という「建物」が再建されたとしても、主の民という「民族再興」が実現しようとも、あなた方の心の内に主は宿っているのかと問うたのがゼカリヤの預言でした。

ゼカリヤ書自体は大きく二つに分けられるのではないかといわれています。途中でテーマが少し変わっているのです。1章から8章では、神殿は再建されるべきものとして語られています。そして主題も天の軍勢、あるいは万軍の主という言葉が幾たびも記される。すべての天使をまとめるものとしての主の到来を待ち望んでおり、その実現をダビデの子孫に求めています。
 けれども9章以降、「託宣」という宣言を冒頭に置いて語られる事柄のテーマは、万軍の主の到来の期待よりも、「その日」といわれる最後の日を待ち望むという、違う救いのあり方を描き出しています。さらに細かくいいますと、12章から14章ももう一度「託宣」として改めて宣言を置いて語られていますので、これらは別々の預言集と見るのが自然かと思われます。

さて、バビロン捕囚の40年、ユダヤの民という小さき民を支配し、その道筋を左右したのは、バビロニア、アッシリアという大国の力、戦い、思惑によるものでした。世界史を省みるならば、40年前にバビロニアによって滅ぼされた南ユダの人々が解放、帰還し神殿を再建、最後を回復するというのはものすごく短い期間の出来事に思われます。この捕囚から解放までの40年を出エジプトの荒れ野の40年とも重ねる見方もあります。出エジプトではエジプトを脱した第一世代はモーセも含めて、誰も約束の地を踏むものはなく、主の約束は次の世代へと託されました。同様にエルサレムへの帰還も40年の年月を経て、民の指導者は捕囚の直接的な体験者から、それらを受け継ぐ世代へと変わっていたとおもわれます。

帰還する民は何を望んだでしょうか。聖書はこの指導者として、エズラ、ネヘミヤの活躍を伝えています。彼らはエルサレムの帰還から神殿再建をリードした新しい指導者でした。最後と国家の回復に努めました。彼らを神殿派といってもいいのかもしれませんが、目指したものは「復古」でした。この主によってイスラエルが最も栄えたダビデ王朝の強固な国家、これは諸外国との間の均衡ということも含めて、その時代の栄華を神殿を象徴として再び興されることを望んだのでした。

しかしすべての帰還者がそのとおりの期待を懐いたのではありませんでした。
 これが丁度、戦後70年といわれてる現在の日本の状況に、非常によく重なると私は感じています。かつてのものを取り戻そうとする勢力が力を取り戻しつつある。しかし尚それでは平和を築けないという叫びが今あがっている。今後どのような歩みをとっていくのか。歩みの中で、国と国との間、私たちの間、そして一人一人、平和というものをどのように築いていくのかということを今こそ問われている、ということを強く感じ、又声を上げるべきであると信じています。
 ゼカリヤの時代も声を上げたわずかな者がいたのではないでしょうか。神殿が再興しようとも、平和、安心というものは回復しなかった。力による脅威は存在している。その中でいかに生きていくのか。小さき者が力を持ち勝とうとするのか、また勝たねばならないのかという問いがあったのではないか。
 しかしその中で、「主の日の到来」、いわば「時の到来」にその実現と望みを求めたのが、ゼカリヤの言葉ではないでしょうか。

この9章の核となるのは9節10節の預言です。ここでは平和の王を求めています。9節の「彼は神に従い、勝利を与えられた者」の「神に従う」は、「正しさ」「義」と訳されるべき言葉です。詩編72編は正しく振る舞う義の王の姿とその業を描きます。王が神との契約に従い義によって民を治めるならば、貧しき者のために正しい裁きが行われ、乏しい子らを救い、彼らを虐げるものを砕くならば、王の子すなわち民は豊かな恵みを授けられることが、待ち望むべき義なる王の姿として謳われています。この正しき王の姿には平和の主が投影されています。
 またその主は軍馬ではなくロバに乗り、「高ぶることなく」貧しく、弱い姿で来られるといわれます。王がロバに乗るということはあり得ないことでした。しかし神がイスラエルに与えられる王は徹底的に身を低くする者、弱さを象徴する王の姿を通しての神の栄光と平和の実現でした。この弱く低い王が、イスラエルの地から戦車を、軍馬をまた弓をも絶ち、諸国に平和を告げるとあります。後のこの神の義によって低く弱くされた王が私たちの前に現れます。主イエス・キリストがこの姿でエルサレムに入り、人々はホサナ(救い給え)と喜び迎えることで、預言は実現します。同時にこの平和の告知はイスラエルの人々のみにとどまるものではなく、「諸国に、海から海に、大河から地の果て」に及ぶものとなりました。

イエスも平和について繰り返し語りました。よく知られる言葉は、山上の説教にて語られた「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイによる福音書5章9節)ではないでしょうか。ではイエスが宣教の始めに悔い改めと共に、「近づいた」と告知した天の国とは何であったのか。
 先に挙げた山上の説教ではイエスは天の国に招かれる「幸いである」人々を挙げています。そのひとつとして、イエスは平和を実現する者を挙げているのです。また、主の祈りにあっても「御国を来たらせ給え」と祈ります。この天の国というのはどのような国でしょうか。また私たちはどのような天の国の到来を望んでいるのでしょうか。
 神の国の到来について、福音書によって少し違っています。マルコ福音書やマタイ福音書では「これから来るもの」。ですから「待ち望みましょう」という書き方をされています。しかしルカ福音書では、「神の国」は既に来ているのではないか、とイエスは答えたと記されています。神の国は見える形では来ない。「『ここにある』、『あそこにある』と言えるものではない」。「実に神の国はあなたがたのあいだにあるのだ」。
 神の国は「既に来ているのではないか」、ということをイエスは私たちに答えつつも、私たちに問いかけているのではないでしょうか。
 神の国が近づいたということは、イエスの宣教の宣言においてなされました。何時その神の国が来るのか。それは復活のイエスが「私はやがて来る」と言い、天にあがっていった。その主がいつ再臨するのかというのと同じく、最初期の教会の人々は神の国の到来は何時なのかということを大きな問題として捉えられていました。
 私たちも同じです。神の国は何時おとずれるのか、どこにあるのか。主イエス・キリストは何時私たちのところに来られるのか。しかし私たちの間に既に来られており、神の国は既に私たちの間にあり、同時に私たちが神と共に造り出していくものなのです。それゆえ神の国を造り出す、「時の創造に」関わるということは、私たちが生きている歴史とは切り離すことができないのです。
 歴史の流れというのは、ある瞬間だけ、一つの事柄だけを分離することはできません。すべてがつながっています。一つの小さな出来事が欠けたとしても、あるいはその逆に小さな出来事が起こったから、後の歴史に大きな影響を与えたことが数知れません。歴史のおもしろさ、深みというのはまさにそこにあるのではないでしょうか。
 この平和の実現を願うことも、同じであると思います。小さな出来事が重なるうちに狡猾に私たちの内に小さな敵意が芽生える。ある日突然、どこかから戦うための、戦わねばならないという見せかけの大義が迫ってくるのではないのです。この敵意の芽を摘むことが平和を作り出すことではないか。
 この芽を摘み、敵意を滅ぼすために私たちは神に立ち返らねばならない。世が動かんとするこの時に声を上げると共に、神が求め約束された天の国と平和とを実現する働きに今こそ当たる時ではないか。

神さま この8月の暑さと共に、私たちは平和への思いをつよくいだいています。8月15日を例年終戦記念日として、敗戦の日として私たちは覚えております。それ以前の8月6日、9日を原子爆弾が広島・長崎の地に落とされた日として平和を願い、祈念する日として繰り返し覚えております。
 しかし主よ、私たちのそのような思いを覆すような戦いへの備えが今なされようとしております。戦いはある日、突然起こるのではありません。わずかな小さな備えが種となり火がつき、止められることのない歩みが始まるのです。どうか主よ、再び私たちが過ちを犯すことがないよう、どうかその小さな種を今こそ摘むときではないでしょうか。その種を摘むならば、自分の手が打たれるかもしれません。しかし尚その痛みを平和のために私たちが為す業とさせてください。そしてその痛み苦しみにあなたが伴われ、真の平和の道を歩む者とならせてください。勇気が要ることです。あなたが共に歩まれることが必要です。私たちに先だち、またある時は私たちの後ろをしっかり支え、平和への道を歩ませてくださいますように祈り、願うものです。正しき判断を私たちの内にお与えください。真の平和を実現する者とならせてください。今日この礼拝に集う者一人一人の祈り・感謝そして願いと主にこの祈りを主イエス・キリストの名によって御前にお捧げいたします。
                アーメン  

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