2018年8月5日 平和聖日礼拝 佐藤直樹牧師のメッセージ

平和とは幻なのか

ヤミカ書 4:1~3
◆終わりの日の約束
4:1 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい 4:2 多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。 4:3 主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。

マタイ福音書 5:17~20
◆律法について
5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。5:19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

マタイ福音書5:13
『「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げすてられ、人々に踏みつけられるだけである。」』

*はじめに−塩に塩気がなければ
 みなさん、おはようございます。  司会者が祈られたように、不順な天候が続いています。異常な高温が連日のように続き、名古屋市でも40度の気温が記録されました。39度や40度という気温を体験する35度でも涼しく感じてしまいます。慣れというのは何とも恐ろしいものだと思っています。  また先週は台風の接近で、予定されていた子どもスペシャルディの晴天、雨天いずれのプログラムも残念ながら中止になりました。その前には西日本、特に中国地方を中心として、大きな水害、豪雨がありました。高温、豪雨と気象の驚異を感じます。
 今日はまずマタイによる福音書5章13節を読みます。『「あなたがたは地の塩である。
 だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げすてられ、人々に踏みつけられるだけである。」』とあります。先ほどミカ書とマタイによる福音書5章17節以下を読んでいただきましたが、お話の準備している間に実はこの13節の方がふさわしかったのではないかと思いました。
 先週の子どもスペシャルデイの礼拝で、この聖書箇所を読み、お話しようと準備をしていました。
 この暑さの中で水分を摂りましょうと言われますが、水分と同時に塩分も摂らねばなりません。というのは汗をかき体の中の水分が無くなっていくのと一緒に体内に必要な塩分も汗と一緒に体の中から出ていきます。その塩分も水分と一緒に私たちは補給する必要があります。
 聖書では塩について、私たちは「地の塩である」と言われています。私たちは「地の塩でありなさい」とか、「地の塩になりなさい」ということでなく、現在形で「地の塩である」とイエス様から言われているのです。それは私たちがすでにこの世にあって塩気がある。それぞれに味があり、人が生きるために必要とされるものであるということをイエス様は言われているのです。このことを子どもたちに伝えようと準備していました。 しかし私たちはこの世にあって、塩であることの難しさを感じています。それは、塩の塩気がどんどんと抜かれていっているからではないでしょうか。
 「地の塩である」ということは、世の中にあって意味ある者として生きなさいということです。さまざまな考え方、意見、見方がある中で、私たちに生きる意味を見出し世の中あって必要とされることを神は求めている、そのことは何であるのかを常に問うていかなければならばいということです。
 しかし世の中は「空気」という、無言の同調を重んじるようになりました。それは今に始まったことではなく、私たち、特に日本の社会は他の人々と異なっていることや違うことをすること、言うことを極度に嫌う社会です。いかに人々の中にあって目立たなく、意見が違ってもなんとかすりあわせて、まあまあまあという感じでやり過ごしていくか。その力がある人を適応力があると周りは評価していきます。
 その中で「いや違うよ。ここはこうだよ」と意見する人は、やがて排除されていく。世の中に塩として存在しようとしても、その塩気を徐々に薄めていかねばならない。そして全く役に立たない者とならなければ、存在することが難しい。非常に味の無いものが生きていくような世の中ではないでしょうか。

 それは来年に予定される天皇の代替わりへの備えを通して私は感じています。
 前回のそれはどのように、いつ行われるのか、天皇が亡くなった時から始まること、そして前々回の経験者が少ない、過剰な自粛ブームなど緊張感が高かった。そして賛成派にしろ反対派にしろ、かなり活発な運動・議論がなされていたように思い出します。しかし今回は、来年の5月“この日に”ということがすでに定められています。そして柔らかく年号が替わるという言い方をしています。今の天皇は引退する形ですが、皇室を離れて一般人になるわけではありません。
 代替わりして次の人が立てられていく。いかにスムーズに行っていくかにいろんな人が今関わっているのではないでしょうか。かつてキリスト者は天皇の代替わりに対して、天皇を現人神とした反省に立って反対運動を続けてきました。この岡崎茨坪伝道所の「わたしたちの告白」にもその文言があり、悔い改めとしています。また日本基督教団も「靖国・天皇制問題情報センター」を設け、情報を集めるとともに、言論を続け、天皇制そのものと、天皇をいだく日本の社会のあり方に問題を投げ続けてきました。 今回の「代替わり」では大分その力が弱まり、煮詰まってきていることを感じると言わねばなりません。それは世の中の塩であるべきキリスト者がまさに塩気を失ってきている。塩気を失ったものは、ただ捨てられ、人々に踏みつけられるしかないものになっているのが、現状なのではないでしょうか。

* 預言者−神と人とを執り成す務め人
 旧約聖書にある預言書を最近の礼拝ではあまり読んでいませんでした。預言とは神の言葉がある個人に語られ、人々に伝えることを託されることから始まっています。預言とは予言ではなく「言葉を預かる」という意味です。ミカという名前は日本では女性に見られるますが、預言者ミカは男性であると言われています。原語ではミカヤと言いまして、「誰が主のようであり得ようか」という意味だそうです。
 ミカは紀元前8世紀の後半にエルサレムの郊外、南西に35キロほどのところにあったモシェレトという村で活躍したと言われています。聖書の歴史を紐解きますと、南北に分かれたイスラエルの北王国がアッシリアによって滅ぼされ、南王国はアッシリアの属国となったころと言われています。ほかの預言者では北イスラエルにアモス、ホセア、南のユダ王国ではイザヤが活躍した時代と言われています。その歴史の評価はイスラエルの王国史である列王記、歴代志において、それぞれの時代の王が主に立ち帰っていたかあるいは背いていたかによりなされています。王の名前によって時代の区切りを付けていくことは、天皇制と一緒なのです。
 逆に、どの王の時代に活動したかをそれぞれの預言書が伝えているので、預言の語られた年代をその歴史的、地理的、政治的な背景も含めて知ることができるのです。
 南北両王国とも社会は腐敗し、罪と不正に満ち、貧富の差が拡大していました。人々の生活は貧しい者ややもめ、弱者を省みることなく、自己中心的そして物質主義にとらわれたものでした。今の日本の進み行く方向と何となく重なっているように思います。預言書の背景には更に、堕落と衰退の根底にはイスラエルを取り巻く周りの国家・民族の土着の信仰を取り入れた偶像礼拝というものが人々を支配していた罪が背景にあったと言われています。
 今日読んだミカ書4章1節から3節の言葉はイザヤ書2章2節から4節にほぼ同じ言葉が綴られています。けれどもこの言葉を語ったイザヤとミカに接点があったのかについてははっきりと分かっていません。イザヤはイスラエルの上流階級の出身とされています。それに対するミカは、田舎町の農村地帯の出身、農民だったのではないかといわれています。
 おそらくこのころ流布された言葉をそれぞれが聞き、それを主からの言葉と受け止めて、預言として伝え、書き記された。どちらが記録として先か後かは分かりませんが、当時の人々の間でよく語られ、人々の間に知られ、共感を生んできた言葉だったのではないでしょうか。

 ミカがなぜ農民だったのか、そして農民の視点を持っていたのかということは、都市の富裕層が地方の農民の土地を奪い、経済的な不公平や搾取があると訴えているからだと言われています。それは2章2節から5節に『彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人から家を、人々から嗣業を強奪する。』 このような告発をした後に『「主は打ちのめされた。主はわが民の土地を人手に渡される。どうして、それはわたしから取り去られわれわれの畑が背く者に分けられるのか。」』と嘆いているからです。
 農民にとって生活の基盤、土地を失うということは命を奪われることでしかありません。社会から公正が失われ、人々が神を捨てていった。それは、人々は神への忠誠を失い、神との対話、意思を問い続けることも忘れていった。しかしそのようなことがあっても神は守ってくれるはずだと、3章11節に書かれています。さまざまな不正が行われる中にあっても『頭たちは賄賂をとって裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者たちは金を取って託宣を告げる。』と。この不正とは自分たちの都合のいいように受けとられる言葉によって、弱い人々が更に虐げられることでしょう。しかし、そのような中にあっても主を頼ると言うのです。『「主が我らの中におられるではないか。災いが我々に及ぶことはない」と。』預言者ミカはどのような不義があっても、主は我らの中におられると言い切っているのです。
 ミカはイスラエルの民が神と特別な契約を結んだことを思い起こさせ、北イスラエルのサマリヤが偶像礼拝という罪によって崩壊し、南王国にあるエルサレムも不義と不信仰によって、神の裁きが免れ得ないことを、神の言葉として預言し指摘しました。人々に神に対する責任を悟らせ、罪を悔い改め、人々を主に立ち帰らせようとしたのです。。

*平和のビジョンによって生きる
 神が求めるのは裁きによる滅びではありません。求めているのは悔い改めと立ち帰りです。神は守り導き、人は悔い改め立ち返る、これを神と人は契約としました。この契約において、十分な責任をお互いに果たしていこうという、人の側が失いつつあった関係を回復していくことを神は求めておられます。裁きとは苦しみの経験になります。経験を通して真の神とは誰なのか、どこにおられ、どのように働き続けるのかを悟っていくことにあります。ミカはここに希望を見ています。やがて来るであろう主、そしてメシアへの預言に希望を託しているのです。
 ミカ書4章3節の言葉は、平和のビジョンとして良く知られた言葉です。ご存じかも知れませんが、ニューヨークの国連本部の建物にこの言葉が刻まれた壁があります。これを平和への幻として、国連の創設の一つの幻・ビジョンとしています。どのような壁なのかと改めて調べてみたら、コンクリートの壁にイザヤの言葉として掲げられていたそうです。英語で書かれています。並行する言葉であるイザヤ書2章4節しか書かれておりませんが、「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。」という言葉が刻まれています。

 「剣を鋤に、槍を鎌に」と言うのは、戦争の道具としての武器、物を壊して人を傷つけていく道具を農作業の道具にしていくということです。作物を育て、命の成長を見守っていくこと。それは生きていくことを意味しています。これは単純に、手に持つ物を武器から農具に替えようではないか。それ以上の意味がここには込められています。それは死から生への転換、人々がどのように生きていこうかということを、私たちの手で作り出していくことの宣言ではないでしょうか。
 しかし、この思いはだれもが持っているとして、辿り着くことのできない高い理想に過ぎないのでしょうか。私たちは平和な世の中に過ごしていると思いがちですが、この地上から戦いが途絶えた日は一日もないのです。今もどこかで戦争が続けられています。だれかが武器を手にしているのです。この武器を農具にし、死を生へと変えていく幻というのは辿り着くことのできない高すぎる理想なのでしょうか。高い山の頂のように、見えていてもそこに辿り着くことは到底できないところなのでしょうか。
 確かに平和の希望というのは、日常生活あるいは人生・社会・世界において容易に実現することのできないことだと誰もが知ってはいます。ですが、遙か彼方の希望は簡単に実現しないものとして諦めるのではなく、希望を持って一人一人が歩んでいくことから始まっていくのではないでしょうか。聖書は一人一人に示された道を歩んでいくことを求めています。一人一人の歩みは小さくても、みんながその理想の山、主の山と言ってもいいかもしれません、その理想の山を目指していくならば、その流れは止めることのできない大きな川の流れのように、大きなうねりとなっていくことにミカは希望を持っているのではないでしょうか。
 ミカ書4章1節に「主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい 多くの国々が来て言う。」という言葉があります。北イスラエルが滅亡し、南ユダもアッシリアの属国になるという強大な力がはびこる中、命が失われた悲しみや絶望的な出来事の中にあっても、山の峰を見上げるように喜びや希望、平和を望み、見つけようとしているのではないかと思うのです。 今日の聖書箇所の直前、ミカ書3章は神の裁きを語っています。しかし、4章からは終わりの日の約束を語っています。4章の始めの「終わりの日に」という短い言葉は何の接続詞もなく唐突に始まっています。裁きの言葉の後に「終わりの日に」という短い言葉の後に、幻の姿として平和のあるべき姿が語られています。ここには「でも」「だから」「そして」「なぜか」「だから」という接続はありません。どれほどの絶望的な状況にあっても、その向こうに神の約束を見ること。それがミカが伝えようとした神の救いと約束の真実なのではないでしょうか。
 平和とは、実現不可能なことなのかと日頃考えてしまいます。しかし、そのような絶望的な状況にあっても、その先に希望を見ていく。希望を信じて、絶望の中から一人が歩みを始めていく。そのことが新たな希望を生み、次々と一人ひとりが立ちあがり、大河のように流れ、平和の幻を求めるうねりを作っていく。そのような歩みを今から始めようと願っています。ではお祈りいたします。

 神さま 暑い日を過ごしています。この暑さの中で私たちは毎年平和聖日の礼拝を守り、平和の幻を追い、そして一人一人がその命を十分に生きていくことができる世の中を、平和の姿を求めて止まないものです。しかし主よ、私たちの間で、預言者ミカが言われたように、武器を農具に、死を命へと変えていく働きがなされるでしょうか。多く者が世の中の雰囲気に同調し流されていく中で、そのようなあなたから与えられたこの地の塩としての役目を忘れがちです。この言葉を語ることは勇気のいることかも知れません。しかしその一歩を踏み出す時、主よ、あなたが私たちと共にいて下さり、歩んでいくことを、今、ここに告白いたします。
 そして一人が踏み出した一歩に、一歩ずつふみだし、大きな平和への流れを、うねりを大河のように作り出していくものとなりますように。今日、この礼拝を覚えつつ、集うことができなかった一人一人をそれぞれの場においてかえりみてくださいますように。一人一人の祈りに合わせ、この祈りを私たちの主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。
                         アーメン

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