2017年8月6日 平和聖日の佐藤直樹牧師の礼拝メッセージ

平和を担う人の業

ヤコブ 3:1~18
 

 1 わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。  2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。 3 馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。 4 また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。 5 同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。 6 舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。  7 あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。 8 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。 9 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また9 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。 10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。 11 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。  12 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。 13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。 14 しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。 15 そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。 16 ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。  17 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。  18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

・鼻が高かったから…?
 おはようございます。
 はじめにこどもさんびか139番「ハクナ ワカィタ サ イェス」を歌うプログラムでしたが、伴奏が準備できないので違う曲にしました。この讃美歌はアフリカのジンバブエという国の讃美歌です。この「ハクナ ワカィタ サ イェス」とは「イエス様のような方はほかにおられない」という意味です。非常にリズミカルで踊り出したくなるような曲です。
 このように世界中の人々が讃美歌を歌い、イエス様に祈り、信仰を持つことで今日を生きているのです。しかしその世界で人々はお互いを隔てて対立を作りだしてはいないでしょうか。人々が憎しみあい殺し合う現実は、21世紀になっても変わることがありません。
 今日は20世紀末にアフリカで起こった出来事を紹介してお話しを始めていきます。
 
 私が最近楽しんでいることは、インターネットを通して全国各地のラジオを聞くということです。気に入った番組を選んで、家事をしながら聞いています。
 ある日いつもと違う放送局を聞くと、一つの出来事が紹介されました。それは「私の家族は鼻が高かったから殺された」という出来事でした。
 アフリカ中央部にルワンダという国があります。かつてはベルギーの植民地でした。その時代、統治の方法として一つの民族にあった二つの部族をはっきりと区分けしました。ルワンダ人の部族は大きく「ツチ族」「フツ族」に分かれ前者は主に牧畜に、後者は農耕に従事していました。従来の区分けは曖昧で、婚姻等には制限はなく自分で名乗れば部族を移動でき、家族の中でも統一されていないほどのものでした。それが鼻の形、顔の形、額の広さ、膚の色が区分けに持ち込まれ二つの部族に強制的に分けられてしまったのです。ツチ族は鼻が高くベルギー人が好む容姿の者が選ばれました。ツチ族の割合は10%、残りの人がフツ族で90%だったといわれます。ベルギー人はツチ族を支援して中間支配層としました。こうして社会に階層を作り出されました。
 世界の民族紛争は、その民族の成り立ちが違う文化をもつ、あるいは違う土地に住むなど、はっきりとした区分けがありますが、ルワンダの場合は違いました。歴史も文化も言語もツチ族とフツ族はまったく同じだったということです。侵略者によって外見のみで区分けされた部族に過ぎないということでした。だいたい1920年位のことでした。
 少数派のツチ族が長く政権を取っていましたが、1974年にクーデターで多数派のフツ族の政権となりました。ツチ族は反体制勢力を作っていきました。1994年にフツ族の大統領が暗殺されます。これが反体制勢力によるものか、体制内部の者によるのか、はっきりと分かっていません。
 このフツ族の大統領の暗殺に対してツチ族の陰謀だという説が流されました。そしてツチ族を殺せ、虐殺をせよというスローガンがラジオや有線放送によって国内に繰り返し流されました。スローガンは「高い木を切れ」でした。これは鼻が高いことで分けられたツチ族を暗喩する言葉でした。こうしてツチ族の虐殺が始まったのでした。
 100日間で100万人殺戮されたといわれています。一日に1万人の計算になります。鉈やさまざまな重火器を使って、その虐殺はなされました。このルワンダの虐殺を止めることはできなかったのでしょうか。

 ルワンダに駐留していた外交機関は、自国民だけを国外に退避させました。国連には第二次世界大戦の経験から、国民、人種、民族、宗教による、集団を迫害し、殺害する行為を国際犯罪だとして各国の協力のもとに防止、処罰しようとする条約があります。この抑止のためには各国が協力しなければなりません。国連の平和維持活動(PKO)も送られましたが、ほとんど機能しませんでした。派遣された軍隊は300人程度であったと伝えられています。
 国連はこのことに対して虐殺・ジェノサイドという言葉は遣わなかったそうです。この集団殺戮ということはなかったと言うことになります。一つの国の国内での出来事として扱われ、ほとんど人もお金も出されませんでした。その結果、虐殺は止まらず、「高い木を切れ」というプロバガンダとスローガンのもとに作り出された対立のもと100万人もの人が殺されました。更に100万人が難民として隣国コンゴへ逃げ、今日も帰還できずにいる人が大勢いるということです。

ルワンダの虐殺を題材とした映画「ホテル・ルワンダ」にはこのようなシーンがあります。この虐殺を取材に来た白人の記者が、ツチ族やフツ族の難民をホテルに受け入れている様子、そして虐殺が行われた現場も隠し撮りしていました。
 ホテルの支配人は、その行為に対して、“ありがとうございます。あの映像を流し出来事が世界に伝えられるならば、世界が私たちを助けに来る”と言い、ルワンダは救われるという希望を持ちました。しかし白人記者は力なくこう答えました。“いや、世界の人たちはこの映像を見て、恐いねと言いながらディナーを続けるだけなんだよ”と。

・言葉によって人は変わる
 私たちはさまざまな枠組みを自分たちで作ってしまっています。“国”というのも一つの枠組みですし、民族というのも一つの枠組みです。ルワンダの悲劇はその一つの民族の中に、侵略者が統治しやすくするために枠組みを作ってしまった。そこに敵対を生んでしまったことにあると思います。その敵対は言葉によって増幅されました。
 言葉を発する口について、ヤコブの手紙では“舌”と言われています。“舌”とは「不義の世界」で、「全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされ」、続いて「舌を制御できる人は一人もいません」とあります。そして舌によって発せられる言葉が、私たちに死をもたらすものとしています。
 しかし不思議なことに、私たちを造られた神を讃美すること、同時に神が造られた人同士呪い合うこともこの舌によってなされていると言われています。同じ舌から讃美と呪いが出てくるのです。同じ泉から甘い水と苦い水が湧き出てくるだろうか、そのようなことはあってはならないと、聖書は私たちを戒めています。

 この虐殺の中でも、人々が生きることができた場所もありました。ある学校に来た虐殺者たちは “ここにツチ族はいるか? だれがツチ族だ”と聞いた。その時に“ここにいるのはルワンダ人だけだ”と答えた教師がいたそうです。同じルワンダ人同士が憎しみあっている。ここには一人ひとりの人間、一つの民族、一つの国の人がいるだけで、その中に区分けはないということを言葉によって悟らせた。そうすると、ここにいる人を殺すわけにはいかないと虐殺者は去っていたという出来事も記録として残っています。言葉によってひとは変わるのです。

・生きるために、平和の言葉を求めて
 神は私たちに言葉を与えられました。言葉によって互いに理解し合い、思いを伝え、神を讃美し、生きている喜びを表すのです。
 だが言葉は時に争いの道具となり、私たちに憎しみを生み、言葉によって殺し合うことまでなされました。ルワンダの悲劇は遠い昔のこと、遠い場所のことではありません。
 現在のルワンダは「アフリカの奇跡」ともいえる情報通信産業を基幹として経済的な発展を遂げています。まるで20数年前のことを忘れるかのように、とてもきれいな国になりました。だれもが語りたがらない出来事だが忘れることがないようにと、銃弾を受け崩された建物はそのまま残し、人々が逃げこんだ教会にはその当時のまま残され、椅子には亡くなった人たちが着ていた衣類をかけて記念していこうとしています。

 今日は教団の定めた平和聖日で、全国の諸教会が平和を祈り礼拝を献げています。どのように私たちは平和を作りだし、その担い手になるのかを祈り続けています。それは正しい知恵を身につけ、私たちに与えられた言葉によって、不義の世界を真の神を讃美し平和を造りだしていく世の中へ変えていくことではないでしょうか。この正しい知恵は神に由来し神から出るものです。
 今日の聖書箇所にこのような言葉があります。「あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。」(14〜16節)。
 私たちが互いに生きていくためにどのような知恵を探し求めているでしょうか。人間の知恵によるならば、それはこの世を滅ぼし、私たちの関係を壊し、戦いをもたらすものにしかならないのです。しかし、「上から出た知恵」といわれる神から与えられた知恵、あるいは神に問いかけて、祈り求めたことにより与えられた知恵は違うとこの後に記されています。「上から出た知恵は、何よりまず、純真で、更に穏和で、優しく柔順なものです。憐れみと良い実に満ちています。」(17節)。これらの知恵によって神の義の実は与えられ、平和を実現する者によって平和のうちに蒔かれるとあります。
 今こそ神が私たちに、何を知恵として与えられるのか、生きるすべとして示されるのか、求めるときではないでしょうか。そして神に祈りの中で問い続けていくこと、これを平和のために続けなければなりません。お祈りいたしましょう。

 神さま この礼拝を平和聖日礼拝として献げることができましたことを感謝いたします。年ごとに、週ごとに、私たちが生きるこの地上に平和があらわれ、あなたの慈愛と恵みとに満たされることを祈り願っています。しかし私たちはこの世の思い、弱き思いによって互いに憎しみあい、戦いをもたらし、またその戦いによって虐げられる者が生じ、命を失う者があり、すべてを失い、今日を生きることに困難を覚える者があることが世界の現実です。どうかこの世界を、私たちを憐れんでください。私たちはあなたに生きるすべを、知恵を、その方法を祈り求めます。今日あなたの恵みにあって生きる者となさせてください。あなたによって与えられた言葉によって恵みを分かち合う者となりますように、強め励まして下さい。今日この礼拝に集うことが適わなかった一人ひとりをどうかその場においてあなたが省みて下さいますように。病の中にある者には癒しと慰めと平安とが特に示されますように。この祈りをここに集う一人ひとりの感謝、祈り、願いとともに、私たちの主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。               アーメン

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