2017年4月16日 イースター礼拝 佐藤直樹牧師のメッセージ

復活―恐れを希望へ

マルコ 16:1~8
 

 1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

・子どもたちへのお話
 おはようございます。イースターのお喜びを申し上げます。
 「お喜び申し上げます」というように、イースターは本当にうれしい時です。それは神さまが新しい命を造られ、イエス様のよみがえりとともに私たちも新しい命として生きることを喜び祝う日だからです。
 命がよみがえったといっても、ぴんと来ないかもしれません。そのために今日は分かりやすいものを皆さんが用意して下さいました。机の上にイースターエッグがあります。イースターといえば卵ということで最近ではスーパーの卵売り場にも“イースターおめでとう”と書いてあったりします。
 イースターについて、新しい命が生まれてくるということに集中して考えてみましょう。
 卵というのは不思議なもので、卵そのものは動かないけれど、卵の中には新しい命が込められています。卵を産むのは鶏だけではありません。鳥とか、亀、蛇なども卵を産むのです。卵は大きな一つの細胞として生まれてくる。殻の中で細胞分裂をして体が作られていき、やがて新しい命は殻を破って生まれきます。
 この殻を破って新しい命が生まれることが、十字架で死んでお墓に納められたイエス様がその暗闇を破って来られたことと同じだ、イエス様のよみがえりによって新しい命を受け取ったと、イースターには卵をみんなで配り、分かち合って、お祝いするようになりました。イエス様のよみがえりの命は私たちの喜びであり、神さまが示された永遠の命に与ること、この思いがイースターの卵には込められています。
 聖書には『イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」』(ヨハネによる福音書11章25節)という言葉があります。イエス様はご自身が復活の命であり、この生命を信じなさいと私たちに呼びかけています。
 私たちもこの復活のイエス様に出会った時から、神様によって生かされる新しい命を持つことを覚えて、イースターをお祝いしていきましょう。ではお祈りいたしましょう。

 

 神さま 今日は主イエス様のよみがえり、この喜びを伝える日としてイースターを祝っています。私たちは神さまによって造られました。そして神様のもとから新しく生きる者とされました。この喜びをどうか分かち合い、伝える者となりますように。新しい学年の歩みも始まっています。これからの一人一人の歩みをどうか見守って下さい。今日、来ていないお友達もそれぞれの場において、神様の恵みと守りとがありますように。この祈りをみんなの祈りと合わせて、主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。 アーメン

・イエスは生きている
 春の訪れとともに、イースターの喜びを感じる日を迎えました。この主の復活は安息日が終わった日曜日の朝、イエスの十字架と死、埋葬までを見守った三人の女性が、イエスの亡骸に油を塗ろうと、その墓に向かったことから始まっています。なぜ彼女たちはイエスに油を塗りに行こうとしたのか、二つの疑問がここで生じてきます。
 一つは、すでにイエスは死んだ者として墓に葬られた。その者になぜ油を塗るのかということ。もう一つは自分たちでは開けられないと分かっている墓に、なぜ女性たちだけで出向いていったのかということです。
 この油を塗るのは病気の者への癒しとして行われていました。イエス自身も病にある者に油を塗り、癒しを行うことが弟子たちの務めだと言われました(6:13)。癒しを求める祈りをささげ、神の業が現れるためになされた働きでした。ですから死んだ者を葬るため、あるいはその亡骸を少しでも長く保存するために油を塗るのではなかったのです。
 彼女たちはイエスの十字架の苦しみに寄り添い続け、死に至るまでを見届けました。しかし彼女たちにとってのイエスは滅びてはおらず、今も生きて苦しんでいるのだと、ならばその苦しみを和らげ傷んでいるならばその痛みを癒さねばと油を塗りに行こうとしたのではないかと思うのです。
 続いて、自分たちだけでは動かすことができない大きな石で閉じられた墓に出向いていった、という二つ目の問題です。石は非常に大きかったと、また「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と墓に行く途中に話し合っていたと聖書にあります。女性三人では動かすことができない程の石で、墓はふさがれていたことは分かっていました。けれども墓に行けば誰かいるかもしれない。あるいは誰かが後でやって来るかもしれない。道中で助けてくれそうな人に声を掛けることができるかもしれないと思っていたでしょうか。それ以上にとにかく今、イエスの許へ会いに行こうではないかという思いに彼女たちは駆られていたのではないでしょうか。

・墓が開かれて
 ところが彼女たちがイエスを納めた墓に着くと石はすでにわきへ転がしてありました。これが復活の日の出来事です。
 彼女たちが心配した墓の石を誰が転がしてくれるかという問題は解決しました。墓を閉じた石は転がされ、その入り口は開かれていました。彼女たちはこれでイエスの亡骸に油を塗ることができると安心しました。しかし彼女たちは間もなく知ることになります。開かれたのは入り口ではありませんでした。実は開かれたのは出口だったのです。
 墓の穴を覗くと、墓の中に一人の若者が白い長い着物を着て、座っていたとあります。この若者はこう告げます。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。ここがお納めした場所である。」と。イエスはもうここにはおらず、出て行ったのだ。この石が転がされたのは、あなたがた(彼女たち)が入るためではなく、イエスが出るために出口としてこの石は転がされたのだ。と告げられたのでした。
 しかしどうでしょうか。ただイエスが出て行くだけならば、石を転がさなくてもイエスは出て行くことができたのではないでしょうか。これはヨハネ福音書に伝えられている物語ですが、ユダヤ人を恐れ家の戸に鍵を掛け閉じこもっていた弟子たちにも、復活の主は現れたといいます(ヨハネ福音書20章19節以下)。このようなイエスにとっては墓の石を転がさなくても、イエスは復活し、蘇った姿を人々に見せることができたのではないかと思います。しかし出口の石は転がされて開いていました。
 イエスは確かに蘇られた。その亡骸は墓の中になく、入り口ではなく出口として石は転がされ、イエスは墓から確かに出て行かれた。このたった一つの証拠を三人の女性たちが見て、弟子たちに伝え、弟子たちは更に人々に“主イエスは本当に蘇ったのだ、復活したのだ”と語り継いでいくために、一つの“徴“として墓穴の石は転がされたのでした。この墓の入り口であり出口となった穴は、死の闇の中に光が当たり、死の世界と生の世界がつながり、また地と天は結ばれたのだともいえるでしょう。

・墓は「終わり」なのか
 さて墓というのは死んだ人が閉じこめられるところでしょうか。牧師として天に召された方の遺骨を墓に納める納骨式を幾度も執り行ってきました。墓前で短く讃美し、聖書を読み、墓の入り口を開き、祈りのうちに遺骨を納めるのです。納めた骨壺は湿度や温度差によって割れ、長い年月をかけてお骨が土に返っていくともいわれています。この墓には入り口はありますが、出口はありません。
 先日、私の父から頼みたいことがあると話をされました。それは家の墓のことでして、墓を受け継いでほしいというのです。それ自体に大きな問題はありませんので、私はただ「分かった、大丈夫だから」と返事をしたのです。
 しかしそれ以前に問題がもっとあるだろうと思っていました。三ヶ月先、半年先、一年先と、老夫婦がどのように、できる限り自宅での生活を続けていくのかということが大きな問題としてぶら下がっているだろうと思ったのです。
 しかし、それは今という瞬間に生きている人間が、自分で何とかしようという課題でしかないのです。目の前の課題はそれぞれが人と人との関わりと支え合いの中でクリアできるかもしれない。しかし人間がクリアできない「終わり」という問題を実は投げかけていたのではないかと、後で思わされました。
 父の言葉には、生きている人間には誰しもタイムリミットがあり、自分がいなくなった後のことに安心を求めたいという思いがあったのではないでしょうか。墓を引き受けるということですべての不安が解決したというようには思いませんが、多くの不安の内、ほんのわずかでも安心を与えられたのではないかと、今は振り返っています。
 このように人の生きる“時”には限りがあります。やり直しがきかず、過ちや苦しみを繰り返す中で、だれもがそのタイムリミットへと向かっています。多くの負い目を抱えながら人生の終わりをやがて迎えます。その現実には出口がありません。死の闇への入口がただ待っているのでしょうか。人間はどうすることもできず、その時を迎えるのでしょうか。

・イエスが開く「出口」
 しかし、主イエス・キリストは現実からの出口を、救いの扉として開きました。
 白い衣の若者が、はっきりと告げています。イエスは復活されて“ここ”“墓”にはいないのだと。さらに希望を語っています。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」。あのイエス・キリストにもう一度ガリラヤで会えるのだと、希望の告知を三人の女性たちは聞きました。しかしその希望は、すぐに喜びへとは変わらなかったのです。8節にはこの出来事に出会った彼女たちの驚愕が伝えられます。「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」とあります。ここでマルコによる福音書は結ばれています。9節以降に元々のマルコのテキストではないといわれ、著者マルコがここで閉じたのか、この後のテキストが欠損したのか、はっきりしたことは分かっていません。婦人たちがこの墓から飛び出し、ただ驚きと恐怖に包まれたということが強調され、強く印象に残ります。
 ではこの恐れはどこで希望に変えられたのでしょうか。それは、誰にも何も言わなかったが、白い衣を着た若者すなわち天使が告げたとおりガリラヤに行くと、そこには復活の主イエス・キリストが既に待っておられた、というところから変えられていったのではないでしょうか。そしてこの恐れを言葉にして語り始めた時から、この恐れが確信へ変わり、確信が希望へと変わり、希望が喜びへと変わっていきました。復活のイエスは弟子たちとはじめに出会い彼らを招いたガリラヤの地でこのように語ったのではないでしょうか。「主はよみがえられた。そして死は闇に葬られた。行ってあなたがたはこのことを世界に語っていきなさい」と。ではお祈りいたします。

 神よ 私たちは今、主イエス・キリストの復活を祝うためこの場に集い、礼拝をささげています。主の復活は本当に驚くべき、恐怖に包まれた出来事でありました。十字架の死を見届け、確かに墓に葬り、人の力では動かすことのできない石でその出口をはっきりと閉じたものが、今開かれその亡骸がそこに無かったことは本当に恐ろしいことでありました。だれにも言えないことでありました。しかしながらただ一つ、天使は「ガリラヤに行きなさい。あなた方がイエスと出会った場所に行きなさい」と言われました。おそるおそるもその場所に出掛けた時、主イエス・キリストは婦人たちに、弟子たちに、多くの人々に出会われました。そして確かに「わたしはよみがえりであり、命である」ということを語られました。そしてこのことを語っていきなさいということを、再び弟子たちに、婦人たちに、そして時と場所を隔てて今の私たちに命じられたのではないでしょうか。教会は驚きとともに、喜びを、そしてまた希望を語る群として主に召し出されました。このイースターの喜びに与るならば、それぞれの場においてその希望を語っていく者とならせてください。兄弟姉妹とともにこの復活の喜びを分かち合いつつ、この祈りを私たちの主イエス・キリストの名によって御前におささげいたします。                                      アーメン

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