2015年7月5日 佐藤直樹牧師のメッセージ

今日(きょう)を生きる糧

出エジプト記 16:1~5
 

1 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。 2 荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。 3 イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」 4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。 5 ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」



ルカによる福音書9:10~17
 

10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。 11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。 12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」 13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」 14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。 15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。 16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

まず「荒野の旅」というお話の紙芝居を子どもたちと一緒に聞きたいと思います。 
 エジプトを出発してから1か月目にイスラエルの人たちは、広い荒野にやってきました。毎日毎日歩き疲れて、みんなとても疲れていました。エジプトを出るときは、もうひどい目に合わなくてもよいと思って喜んでいた人たちも、段々文句を言うようになりました。「いったいいつになったらカナンに着くのだろう。」「持ってきた食べ物だってもう無くなってしまった。お腹がすいたよ。」「こんな事ならずっとエジプトにいれば良かった。」「おいしいものをいっぱい食べたいね。」みんなが文句を言っているのを神さまはちゃんとご存じでした。神さまはモーセに素晴らしい約束をなさいました。モーセはそれをみんなに知らせました。「皆さん、喜んでください。神さまが天からパンを降らせてくださいます。お肉もくださいますよ。」
 神さまの約束のとおりになりました。夕方になると鶉がたくさん飛んできました。みんな鶉の肉をお腹いっぱい食べました。朝、目がさめると地面に白いものが落ちていました。モーセが言いました。「これは神さまがくださったパンです。自分が食べられるだけ集めなさい。」みんな籠を持ってきてパンを集めました。蜜を入れた煎餅のように甘くておいしいパンでした。イスラエルの人たちはこのパンをマナと呼ぶことにしました。飲み水が無くなってしまうと神さまが冷たい水をくださいました。そして神さまはいつでもイスラエルの人たちを守ってくださるのでした。
 
 今日はこのお話ともう一つ、神さまが食べ物をくださった奇跡の物語から聞いていきます。
 主の祈りを項目ごとに取り上げてお話をしていますが、この祈りは初めに、み名、み国、み心と「み」で始まる神についての三つの祈りがあります。それらの後に「我らの」と始まる「わ」の祈りが、我ら人間に対する祈りとして続きます。
 我ら人間に対する祈りの初めに「日用の糧を与えたまえ」という、腹を満たす祈りが置かれるということは、とても興味深いことです。「腹が減っては戦ができぬ」という諺がありますが、これは何事かを行う前には腹ごしらえをしておかねば力が出ない、あるいは考えること、集中力が続かないということではありません。聖書がいう空腹には大きな意義があります。空腹でなければ知ることができないことがありました。この「パン」から思い起こすのは、イエスの体験した荒れ野での40日40夜断食、そして悪魔から受けた「神の子なら、この石がパンになるように命じよ」(マタイ4:3)との誘惑のことです。
 イエスはこれに対して、「人はパンだけで生きるものではない」(同4:4)と退けます。時にこの部分だけを用いて、パンだけでは足らずに他のものも必要だ、あるいは、肉体的に満たされたならば精神的にも満たされるものが無ければならないなどと言われることもあります。しかし大切なのはこれに続くイエスの言葉なのです。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(同4:4)。
 けれども、これはイエスがこの時に新たに語った言葉ではありませんでした。申命記8章3節にある律法の言葉です。このようにあります。「3 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」と。
 イエスは荒野での空腹にあっても、神の言葉によって十分に満たされている。肉体的な空腹を満たさなくても荒れ野で生きていると誘惑を退け、律法の言葉を明らかにしたのです。
 申命記の8章はイスラエルの荒れ野40年の旅を思い起こさせます。この間、多くの苦しみや飢えがあり、人々は嘆き、苦しみを訴えました。いかなる困難にあっても戒めを守る人に対して主は守り導かれ、見捨てはしないという約束をされました。同時に神も人が戒めに誠実であるかを見つめ続け、耐え忍んでいられるか、耐えておられた。このことに今回気がつきました。
 先ほどの司会者の祈りでは、私たちには多くの苦しみがあることを神の前に明らかにされ、その告白に心を動かされました。聖書では「食」を求めることを、最も身近な苦しみとして与えられたことが初めに伝えられているのです。それは、まず腹ごしらえをしなさい、ということではありません。この地上を今日生かしてくださいという、命への欲求がそのままここに現れています。

 

イスラエルの人々はモーセに導かれて、主の約束のまま荒れ野に旅することになりました。その最初の不平が、腹が満たされないことでありました。
 「エジプトにいれば肉の入った温かいスープが飲めたのに」。しかし神の約束だとエジプトを脱出したものの、与えるといわれた約束の地にいつになっても辿り着かないではないか、それまでに私たちは死んでしまうではないか。この空腹にはエジプトの鍋が恋しい。あの肉とあの汁とあの暖かさが欲しい。このような不満をモーセに対し、そして神に対してぶちまけたのでした。
 これは主の導きと、神の前での生き方に対する反抗です。たとえ奴隷であっても、ただ一つの神に仕えずとも、他の神々が腹を満たしてくれる。やはりエジプトに留まるべきであった。エジプトの支配に収まれば、多少の困難はあっても生きていくことができ、荒れ野でのたれ死ぬことはなかっただろう。だからその方が良かったのだ、といううめきと後悔でした。
 ではモーセが彼らを満たす食べ物を与えることができたでしょうか。彼には全くできませんでした。モーセは神の言葉と約束を人々との間に立って執り成すという、自分の役割をよくわきまえていました。
 この天からパンが与えられるという物語の中には、執り成し手としてのモーセの言葉はありません。モーセが神に対して何を語ったのかということは伝えられていないのです。おそらく人々の訴えをそのまま主に語りかけたのではないかと思われます。モーセには神に依り頼む以外に、この飢えと渇きを解決する手段はなかったのです。モーセの訴えは省みられました。
 「やはりエジプトにいるべきだった」と不平を口にして後悔していた人々が、十分満たされるだけの糧が天から与えられました。彼らが満たされたのは、この日この時だけではありませんでした。次の日もその次の日も天からの糧は与えられ、安息日があるならば加えて二日分与えられたということまで伝えられています。
 面白いのは、この食べ物は保存が効かなかったということです。その日食べる分だけを与えられ、翌日の分はまた翌日与えられ、繰り返し与えられていたということです。これには二つの意味が隠されているのではないでしょうか。一つは神が、常に人々を生かす糧を、新たに、繰り返し与えているということ。もう一つは、その時期に適ったものを不足なく与えているということです。明日の分や明後日の分、その次の分と貯め込んでおく必要はなくなったのです。
 これは物質的な食べ物を神さまが与えてくれるということだけではありません。人が生きるのに十分な糧と命の言葉、約束と導きは必要に応じて様々な形によって与えられるということです。その真実が繰り返しマナが与えられたことの中に秘められているのではないでしょうか。

 

新約聖書の各福音書に伝えられる5000人に食べ物が与えられる物語も、人は神の言葉によって生きるということを伝えています。この大勢の人々が満たされたという奇跡は、どうしたのかなどと物理的に説明できることではありません。イエスはここにはパン5つ、魚2匹、食料はこれしかないのだとさらけ出したのでした。
 イエスの元には大勢の人々が集ってきていました。イエスが語る神の国を求め、今すぐに肉体的な苦しみを取り除いてもらわなければ生きることができない人々、あるいはそれは魂が飢え渇き命の泉はここにしかないとやってきた人たちでした。彼らの中には、ここにしか救いはないという望みと共にわずかな食糧を持って来たが、それが尽きてしまい帰ることが叶わない人たちもいたはずです。食べるものがなくなり、今はもうこれだけしかない。そんなわずかな食料では、自分も含めた皆が満たされることはないであろうことは分かりきっていました。わずかに主に希望を抱きつつも、ほぼ諦めていた人たちの集まりでした。
 実はこの姿、今ここに集う私たちと、そして私自身と重なっているのではないかと強く知らされました。主に希望を抱きつつ、諦めてはいないでしょうか。神さまは私たちに命の糧を与えてくださることを信じつつも、これが物理的に叶うことではないと割り切っている自分、その両面が存在しているのではないでしょうか。イエスはこの諦めを抱き、真に信じていない者の姿として激しく打とうとしています。
 もしもこの出来事が物理的に、何らかの業によって人々の腹が満足したというだけの出来事だったら、聖書はこの出来事を今に伝えてはいなかったでしょう。満たされたのは腹だけではありませんでした。彼らの心、そして魂、生きる命、これらを主イエス・キリストは力を与え、奮わせ、ここから旅立っていくことを促したのです。これが、5000人がイエスの元から新たな力を得、心奮わせそれぞれの場に旅立っていった。そして生きる者となったという奇跡の真実なのではないでしょうか。

今年もアドベントを迎えました。
 街は賑わいを見せ、その渦中で御子イエス・キリストの降誕を祝う備えをしています。
 しかし一人一人はその喜びに満たされているでしょうか。クリスマスを迎えようとする光の中で、光に照らされない影の部分ができているのではないでしょうか。
 人間が造り出す光には限りがあります。そこに自分が立とうとすれば自分の背後に影ができてしまうことを私たちは知っています。神はその人々が作り出してしまった影、すなわち光が照らされない部分に対して、まことの光を当てようと、御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったのです。世の中には今日を生きる力を失い、この御子の光を求めてやまない苦しみ、哀しみが存在し続けています。私たちが祈るならば、今ここにあなたがその力と糧を与えてくださるように、また日ごとの糧として絶えることなく語りかけ、語りかけてくださいますように、そして一人一人が主によって生かされるためにではないでしょうか。それではお祈りいたしましょう。

神よ 私たちはそれぞれの場から主を讃美し、祈りささげるために、また御言葉によってこの場から生かされるために集ってまいりました。しかしながら、私たちのうちに平和を乱す危機があり、人々の間に、争いと心と魂の飢え、渇きがあり、あるいは愛する者を喪った多くの哀しみがある人がどれほどいるでしょうか。どうか主よ、困難の中に導き出されたイスラエルに糧を与えられたように、そしてまた、ただ一つの救いがここにあると信じて集ってきた多くの人々が少ない食物からその命を得て分かち合い、それぞれの場に向かって歩み生きていった奇跡があったように、私たちのうちに日ごとの糧と命をどうぞ示してくださいますように。その主の言葉によって生きる者となりますように。この祈り、主イエス・キリストの名によって御前にお捧げいたします。 アーメン    

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