2016年11月20日 召天者記念礼拝 佐藤直樹牧師メッセージ

主に結ばれるならば

Ⅰコリント 15:50~58
 

 50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。 51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。 53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。 55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。 58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

・子どもたちへのお話
 教会は神様を礼拝するところです。では教会が皆さんの行っている学校や幼稚園・保育園と一番違うところはどこでしょうか。
 教会と他のところの違いは、大きく二つあると思います。一番大きな違いはいろいろな年齢の人がいるということではないかと思います。今日は生まれて1か月半の赤ちゃんから、一番上は70歳以上の方まで集まって礼拝をしています。
 もう一つの違いは、学校にはあって教会にはないものです。教会には卒業式がありません。 それはどうしてかというと、教会に連なる一人一人が、たとえこの地上で命が終わったとしても、天国で神様の許に一緒にいるから、教会は卒業式がないのです。ですからこの世で死んだからといっても終わりではないのですね。教会に、そして神様に繋がっているということは、その後神様の許でも私たちは繋がっているのです。それが教会の一番豊かなところ、大切にするところです。お祈りをします。

 

 神様 今日この秋の晴れた空の下、教会に集まり讃美歌を歌い、祈りを合わせ、お話を聞くことができました。感謝いたします。新しい一週間が始まります。どうかこの一週間も、元気で楽しく過ごすことができますように。私たちの周りで困っている人がいたらどうぞあなたが寄り添って、いまこそ助けてください。今日来られなかったお友達もその場で豊かな恵みをお与えくださいますように。この祈り、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。 アーメン

・はじめに
 岡崎茨坪伝道所での働きが3年目に入りました。商店者記念礼拝でお話しさせていただくのは今回が初めてです。
 礼拝に先だって、昨年までに・一昨年といただいた召天者の方々が書かれた文章などをまとめた資料を振り返って読んでみました。一度は読んでいるのですが、なかなかお一人お一人と繋がりが見えていませんでした。改めて皆様との交わりを通して読み直すと、様々なことが繋がってきました。そして皆さんと深い関わりがあったこと、またこの伝道所が開かれるにあたってどのような思いを持たれたかということを知ることができました。
 このように資料としてまとめられていることは稀なことです。文書を通して出会いを与えられたことを感謝しています。

・今日はひとつの物語を紹介して始めます。
  「ガリヴァー旅行記」という物語をご存じでしょうか。小さな人の国に行って、巨人となった自分がどのようにこの国に関わっていたのかというよく知られたお話が第1部です。続いてこの逆の立場になる巨人の国へ行って自分が小さな人間になってしまうお話が第2部です。第3部は世界のさまざまな国を回る中で、不死の人々に出会う話。この中には日本にも立ち寄る場面があり、そこでは踏み絵を拒否して長崎から船に乗って帰ったという話があります。第4部が馬の国。これは「ヤフー」という馬の国へ行き、最後には非常にグロテスクな人間の嫌な面が出てきてしまうという社会風刺の物語なのです。
 1735年に完全な版が出版され、正式には「船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーによる、世界の諸僻地への旅行記4編」という題だそうです。
 ガリヴァーという医者による、奇妙な文化の報告を旅行記という形で記した。しかしこの物語は遠い国の話ではなく、当時のイギリス人の社会や慣習に批判的な視点を与えるために、非常に慎重に設計された、異国や野蛮な文化、遠いところの文化ではなく自分の国の持つ奇妙な習慣、そして消し去った方がよいと思う慣習に対しても痛烈な批判を与えている書です。
 著者のスウィフトはアイルランド人でした。イギリス人およびイギリス社会に対する批判は、イギリスの対アイルランド経済政策により、イギリスが富を享受する一方でアイルランドが極度の貧困に喘いでいたことが挙げられています。
 「ガリヴァー旅行記」は、先の2編、小さな人の国、大きな人の国に入っていった話が子ども向けの話としてよく知られますが、この作品は当時の道徳あるいは品行に対する痛烈な風刺を与えている作品なのです。これが読み方によっては、さまざまな人間のあり方あるいは政治、社会への入門書として捉えることができる。例えば法における判例上の対立とか哲学、不死・死なないことへの追求、あるいは男性、動物をも含めた弱者をどのように生かしていくのかという権利についても予見していたと言われています。

 今日注目してみたいのは、第3部の後半の方にある大きな島国、ラグナグ王国というところに着いた時のことです。そこに死なない人間がいるという噂がありました。ガリヴァーはもし自分がそのストラルドブラグと言われている不死人間になれば、いかに素晴らしいことだろうと想像していました。
 そしてガリヴァーがこう叫んだと言います。
 『「どの子も、もしかしたら不死の人間として生まれてくるのかもしれぬ、少なくともその機会に恵まれている、とは、なんという幸福な国民であろう!自分たちの仲間として、昔の美徳の生きた見本として、すべての過去の時代の知恵をいつでも伝授してくれる先達をもっているとは、なんという幸福な人々であろう!いや、人間に必ずつきまとうあの禍から生まれながらに解放され、したがって死の絶えざる恐怖が精神にもたらす暗澹たる重圧感を感ずることもなく、心を常に何の屈託もなく自由に遊ばせることのできる、素晴らしい不死人間こそ、まさに世界に例のない幸福な人々といわなければならない」と。』
 『もし私が、幸運にも、この世に不死人間として生まれてきたとする。〜すべての知恵を絞り、すべての手段をつくして富を獲得することを心に決め、〜約200年のうちには王国きっての大金持になることは間違いなかろう。第二に私は若い時から学問や芸術の道に精進し〜他に並ぶ者のない大学者になれるにきまっている。〜私は知識と知恵のいわば生きた宝庫となり、国民を指導する神話的存在になることは火を見るより明らかである。〜将来有望な青年たちの品性の陶冶に我が生涯を賭けて、悠々と暮らしたい。〜公私両面の生活において美徳がどれほど大切なものかを説いて聞かせるのが最上だと思っている。伝えていきたい。』(岩波文庫 『ガリヴァー旅行記』より)として、そしてかねてから訪れるであろう自然現象や天文事象、諸々の発明もこの目で見届けたいという希望を持った。

 しかしこの不死人間というのが、不老人間ではないのです。死なないけど年老いていく。逆を言うと、年老いていくけれど死ぬことのできない人間がいるのです。これを読者にどう思うのかということを問いつつ、風刺しているのです。その不死人間の姿は200歳になろうとも死ぬことができず、何を言っているのか分からない言葉を繰り返して、生き長らえている。国は法律を定め、80歳になったら彼らを死んだ者として扱い、一切の権利を剥奪されるのだと物語には書かれています。
 この著者スウィフトは老人の醜態を描きつつ、この国の富が老人によって独占されていることを批判しています。現代に置き換えれば、高齢者がどんどんと増え社会の負担も増していくそれを国がどう面倒をみねばならないのかということをまるで予見するかのように物語は書きつづられています。

 ガリヴァーの物語から、生命には限りがあることを思わされます。どのような知恵をつくし、財産を集め、どれほどの美徳を人々に伝えようとも、人が持てる時には限りがあるということです。この物語から聖書にある「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉3:1)を思い起こします。人が持つ「時」には限りがあるが、ただ一つ限りなく持てるものがあるということも聖書は伝えています。それは、主イエス・キリストの復活の真実としてその神の国へ迎え入れられるという約束なのです。
 パウロ自身、このコリントの信徒への手紙一15章を通して復活を長く論じています。それはコリント教会に現れた復活などなかったのだという人たちの誤謬を消し去るためにこの手紙の多くを割いて論じました。パウロ自身復活の主に出会い、最も大切なこととして主の復活の出来事を伝えました。その中心は、キリストが私たちの罪のために死に、葬られ、三日目に復活したこと、ついで十二人の弟子、そして大勢の兄弟たちの前に現れ、最後にパウロに現れたことです。
 しかし、コリント教会のある人たちは、死者の復活などないと主張しました。単純に死人が蘇生するというのでしょうか、生き返ることなどないことからキリストも生きかえることなどないと言ったのでしょう。そして彼らは自らの肉体と精神を高めることで世にあって完成した者、完成した姿になることが天に最も近いのだとして、キリストの復活というのは不必要であり不可能な出来事だと主張したのです。

 しかし、パウロは死者の復活というのは主イエス・キリストに限り、イエス・キリストによってのみただ一度のみ実現し、自分も含めて多くの証人を得ていることだとしました。この復活から天の国を待ち望む者が世にあるべき姿を勧めています。
 パウロは「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」(50節)としました。この世に生を受けた者はやがてその生を終え、朽ちていき、土と還り、塵と化すときを迎えます。ですからこの生きる人の姿はどのような姿であっても、いかなる知恵を持っても、どれほどの富を得たとしても、完成された姿というのは地上にはありません。
 しかし天の国への希望を持つならば、その希望によって、たとえ年老いたとしても衰えることなく成長し続け、やがて神の国に迎え入れられる時を迎えるのです。パウロは世にあって完成されたと主張する人々への反論としてこの言葉を述べたのでしょう。

 またパウロ自身も主イエス・キリストが再臨し、そこで約束された天の国への希望を抱いていたはずです。その時はいつ訪れるのか分かりません。パウロは幻として、ここで最後のラッパが鳴ると一瞬のうちに私たちの知ることのないときに合図があり、一瞬にして“その時”の転換がなされると伝えています。
 死者が復活し、その時に私たちが変えられる。朽ちるべきものは朽ちないものを着、死ぬべき者が死なないものを必ず着ることになります。私たちの身に纏うものが転換するかのように表現され、天の国に迎え入れられ、天の国において永遠の命を受ける者になることをパウロは幻として語っています。その時日常における命の終わりの“死”が神に勝利に飲み込まれ、死は滅ぼされ神の時は完成するのです。

 最初に子どもたちのお話の中で、教会の持つ二つの豊かさということをお話ししました。もうひとつ加えたいと思います。それは命を見つめ続けること、その命の先に天の国が約束されていることを通して、この世の生、あるいはこの世の死をも否むことなく、希望を持ち続けることができること。ここに教会の、そして教会が伝える信仰と十字架の約束の確かさ、その豊かさが現れているのではないでしょうか。
 天の国を待ち望むならば、この地上でなすべきことがただ一つ勧められています。それが58節の言葉「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。」という言葉です。
 いまこの世に生のあるものが、天の国を望むならば、この世の業にしっかりと励む事が勧められています。天の国の到来を確信し、地上の労苦を担っていくということでしょうか。主イエス・キリストはこの労苦を私たちと共に担うためにここにおられます。そしてこの地上の労苦を解き放され、天にあるものとも共におられます。それゆえに信仰によって繋がるならば、私たちは今、天にある友と共に、主を通して、主によって共に居続けているのではないでしょうか。お祈りいたします。

 神様 今日、召天者記念礼拝をささげました。この群に連なる皆が、かつて思いを分かち合った友のことを憶え、祈りをささげています。司会者が祈りに一人ひとりの名前を挙げてくださいました。この地上で共にあったときの言葉、さまざまな思いが私たちの中に改めて思いおこされます。私たちはかつて交わされた言葉と交わりによって今日を生かされています。しかし主よ、天に召された友は遠いところに行ったのではありません。主のよって連なるならば、この地上にあって私たちがその主の業に励むのであれば、すぐ傍に、いや同じ神の国にいるのです。私たちの“時”には限りがあります。やがて私たちも天の国へ迎え入れられる時がきます。どうかその時まで、ただひたすらに主の約束を信じ、その道を歩むことが適いますように。今日この礼拝を覚えつつこの場に集うことの適わなかった一人ひとりをその場においてあなたの豊かな恵みと顧み、慰め、癒しがありますように。この祈り、ここに集う一人ひとりの祈り、願いとともに私たちの主イエス・キリストの名によって御前におささげいたします。

引用:Jonathan Swift (1726).Gulliver’s Travels.(スウィフト 平井正穂(訳)ガリヴァー旅行記 岩波文庫)
参考:Wikipedia「ガリヴァー旅行記」

<<説教・メッセージの記録 | 主に結ばれるならば  
inserted by FC2 system