2016年05月08日 佐藤直樹牧師の礼拝メッセージ

主よ、なぜなのですか

聖書 ヨブ記2:1~10
 

1またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。2主はサタンに言われた。
「お前はどこから来た。」
「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
3主はサタンに言われた。
「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」
4サタンは答えた。
「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。 5手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
6主はサタンに言われた。
「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」
7サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。8ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。
9彼の妻は、
「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、10ヨブは答えた。
「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。

 旧約聖書を貫く契約という思想は、馴染みにくいところがある。申命記4章には「わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入ってそれを得ることができるだろう」と約束し、民の背信によって一度はモーセが砕いた十戒の石版を再び授与することで、イスラエルの民と主の契約は破棄されていないことが確かめられた。しかしいかに掟に忠実であっても、避けえない不条理な出来事、苦しみ、生命への危機は人を襲い、苦しめる。特に大きな自然災害には人の生命や暮らしを一瞬にして暗転させる「悪のエネルギー」があると考えるしかない。その渦中に落とされた人は悩みと苦しみの中から、神なぞいるものかという叫びを上げてきた。
 この不条理さは古代から人間を苦しめた。ヨブ記はその問題に正面からぶつかっている。ヨブは神から大きな恵みと祝福、そして世の富を受けていた家長であった。無垢で正しく、神を畏れ、悪を避けて生きていると、主は最大限の評価をする義人だった。
 さて悪を司るとされるサタンだが、ここでは主の使いである天使の一つとして描かれている。天使にはそれぞれ持ち分があると理解されていた。例えばセラフィムは火を司り、カブリエルは言葉を伝えるとされた。サタンは地上を巡回して正と悪、義と不義を見分けるのが務めであるように記される。
 その巡回から天上に戻ったサタンは義人ヨブを試みることを提案した。財産と家族を奪い、その身体に病をもたらすことで、彼は主への呪いを口にするだろうと。主はこの試みを許した。ヨブにとってみれば理由のない災いに繰り返し襲われることになった。現代の読者である私たちに納得の出来ない一つの疑問が生じる。なぜ主はヨブへ災いをくだし試みることを許したのか、と。

 一度目の試みで財産と家族を奪われたヨブは、衣を割き悲嘆を表しつつも主をほめたたえ、呪いの言葉を口にすることはなかったという。サタンは二度目の試みをヨブにくだすことを主に要求した。「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい」(5節)。主はただ命を奪うことは除き、サタンの望みに応じた。
 ヨブの身体は全身ひどい皮膚病に襲われた。皮膚の病は穢れとも結びつき、イスラエルでは会衆の群れから隔離され、主の前から取り除かれることでもあった。さらにヨブの妻の「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬほうがましでしょう」という言葉にある無理解も彼への苦痛として加わった。

 ヨブはこの苦難の全てを「わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」(10節)と神によるものとして受容する。すべての業と時を神のものとして受け入れた。

 旧約聖書の思想を振り返れば、我々は神観を修正させられる。このヨブ記は箴言、コヘレトの言葉と共に旧約聖書の中で知恵文学といわれる書物になる。これらの書では共通して不条理な不幸、労苦をなぜ神は世にくだされるのかという問題を人の苦悩として取り上げている。
 特にコヘレトの言葉では、何事にも時があり(3:1)、人が労苦したとことで何になろう(3:9)と、また知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す(1:18)とされ、真理を知るならば、神の恵みや豊かさのみでなく、その反面にある苦しみや悩み、痛みや嘆きも明らかにされるという。

 イエス・キリストは主の祈りにおいて「悪より救い出したまえ」と祈ることを教えられた(マタイ6:13)。荒野で祈り空腹を覚えたイエスもサタンによる「神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ」(マタイ4:3)との誘惑を受けた。しかしイエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(同4節)とこれを律法の言葉によって強く退け、自己の内的な空腹と、外から襲う誘惑という二つの苦しみに敵対した。また十字架の苦しみを受けようとする直前のゲッセマネの祈りにあっても、「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と、悪を遠退けるように苦しみの中で祈られた。
 主の祈りの原文は「救い出したまえ、我らを、悪しき者より」という語順になる。救い出したまえとは、ただその場にあって状況を変えるのではなく、いかなる危機からもこの身を引きずり出したまえという強い意味を持っている。悪に囲われた中からその外へと、この身と魂を引き出してください、あなたしかその業はできませんという緊急脱出を要する中でなされる、ただ一つの祈りの叫びなのだ。  人はその悪の囲いを自らでは破れず、悪とのつながりを断ち切ることができない弱さの中に置かれている。この祈りの言葉から我々は己の弱さを見つめ直さないとならない。
 ささやかな誘惑とそこから来る迷い、過ちにあってもこの祈りを祈るならば、主は悪の囲いから我らを強い御手により引き出し、神の義による生への道を示される。

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