2016年3月6日 佐藤直樹牧師の礼拝メッセージ

十字架での約束

ルカ 23:26~43
 

26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。 27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。 28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。 29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。 30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。 31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」 32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

●誰を赦すために?

主イエス・キリストの苦難に3人の人が伴い、用いられたことが聖書によって伝えられています。一人はシモンという、イエスの十字架を担ってされこうべといわれたゴルゴダの丘まで運んだ人。あとの二人はイエスとともに十字架につくことになった犯罪人二人です。
 当時は死刑を宣告された人が、自分のつけられる十字架を担いで刑場まで歩かされました。ここからが十字架刑の始まりでした。けれどもイエスの十字架を担いだのは、過越祭に外国からやってきたシモンというキレネ人と伝えられます。なぜこの人が選ばれたかは聖書には伝えられていません。十字架を担がされたシモンにすれば自身には何の罪もなく、いわば「とばっちり」であったでしょうか。ここには外国人であるという、偏見と差別があったのかも知れません。
 イエスが歩き、キレネ人シモンが十字架を担ぎ、その後に葬列が続くように、イエスの後を民衆、婦人たち追いました。おそらくイエスはこの時、言葉をシモンに対して掛けることはなかったでしょう。そして彼の眼にこのイエスの姿はどう映ったのでしょうか。ぼろぼろになりながらも自ら刑場に向かうイエスの姿に、これまでの生涯では見ることのなかった苦しみに直面したはずです。しかしイエスは、この道筋を葬列だと思っていませんでした。神の福音が完成するためのただ一筋の道として、神がイエスの前に先立って歩き導いておられることを見ていました。

この十字架の出来事にはさらに二人の犯罪人が加えられました。ルカ福音書ではその罪人がどのような咎で十字架につけられたのか触れられていなませんが、十字架刑は幾人かをまとめて、ローマ帝国の支配者が行うのが慣例でした。イエスは弟子たちに「その人が犯罪人の一人に数えられた」という預言書の言葉(イザヤ53:12)を引き、このことが実現すると知らせています(ルカ22:37)。これは他の犯罪人とともに処刑される十字架刑を暗示する予告でした。

ルカ福音書ではイエスの十字架上での祈りが34節に伝えられています。ただ、この言葉は新共同訳の翻訳では〔 〕が付き、後代に挿入されたと解釈されています。十字架に付けられたイエスが痛みと苦しみ、辱めの中で祈ります。「父よ、彼らをお赦しください」。この「彼ら」とは誰でしょうか。「自分が何をしているのか知らないのです」と続きます。イエスは自らを十字架につけた者のために神にとりなしの祈りをしているのです。
後に、初代教会のキリスト者は殉教者が現れるほどの迫害を受けました。その時、イエスが十字架にあっても自身に苦しみを与えた者のために執り成しと、赦しを祈った姿に倣い、どれほどの苦難を受けてもただ神を見上げて祈り、天に希望を抱き続けるよう、主に倣うならば天の国での救いが約束されると信仰を励ますべく、この十字架での祈りこそが苦難にあっての希望だと伝承されたのではないかと言われています。

現代まで、イエスに苦難を与え死に追いやったのは誰なのかという問いかけを続けます。聖書の言葉と出会う今こそ、この問いを続けなければなりません。長く熱狂に陥り「十字架につけろ」と叫んだユダヤ人がキリストを死に追いやったという解釈がなされ、偏見と差別を生んできた歴史があります。
 しかし聖書を読み込めば、誰がイエスを十字架につけたのか、多くの捉え方があると気づきます。ユダヤ人の熱狂か、政治的にはローマ人か、最後までイエスに従うと言いつつも従うことができなかった弟子たちか、身を挺してイエスをかばわずにローマという権力に従うだけだった民衆・婦人たちなのか、イエスに嘲笑を浴びせた議員と兵士たちか、あるいは頭の上にユダヤ人の王という札を掲げた者なのか。イエスを十字架に付けたのは誰なのかは、特定できることではないのです。

●十字架で赦された人

次いで聖書はイエスと並び十字架についた二人の犯罪人の言葉も伝えています。
 その一人はイエスを十字架につけろと扇動した者やそれを認めたローマ人と同じことを言うのです。「お前はメシヤ、救い主だ。自分自身と我々を救え」と。救い主ならお前を含めた十字架に付けられているこの3人も救えないのか。今受けているこの苦しみから救い出せ。それが出来なければ救い主とはとうてい言えないのだ。お前の頭の上に掲げられている罪状そのものが嘘なんじゃないか。こういう問いかけを叫んだのです。
 もう一人の犯罪人は対照的です。「お前は神をもおそれないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は自分の報いを受けている。しかしこの方イエスは何もしていない」。死刑になるような罪を、彼は認めないというのです。ここでは「お前はメシヤだ。しかし我々を救えないではないか」という有罪の宣告、しかしその反対の「罪を見出せない」という無罪の宣告の両方がなされています。
 絶叫ともいうべき激しい言葉の応酬に対して、聖書は情景を非常にシンプルに描きます。「十字架に掛けられた」(39節)ということしか書かれておりません。聖書の翻訳から、この場面の苦しみ、辱めをどのように受け取りますか。この痛みをいかに知るべきでしょうか。

15年ほど前になりますが、「ぼくの神さま」という映画を見ました。ナチスによる圧制下のポーランドで一人の少年が、ユダヤ人の友の命を救うためにナチの強制収容所行きの貨車に自ら乗っていくという命の犠牲を描く映画でした。
 田舎の友人のつてを頼って農夫の家に預けられたユダヤ系の少年はその家の二人の兄弟と徐々に打ち解けていきます。また一人の神父と出会い、聖書とカトリックの祈りを学びキリスト教徒を装い、生き延びようとしました。
 彼らは時折汽車に乗せられていく人がいること、そしてその人々が誰も帰ってこないということに気がついていました。やがてその先では何が行われているのかということも知るわけです。
 少年は自分がユダヤ人ではないことを証明しようと、強制収容所へ向かう汽車から飛び降りて逃げようとしたユダヤ人たちの追いはぎをした上で、ナチスに取り入られ彼らへの虐待もします。そこに兄弟がユダヤ人と誤認されて連れられてきます。「彼はユダヤ人じゃない。ポーランド人だ。兄弟だ」とナチスの将校に訴えます。それを聞いた将校は兄弟に「彼は兄弟だと言っているがそうなのか?」と尋ねると兄は受け入れ、弟は静かに首を振り断ったのです。少年はあまりにも重く、赦されない罪を犯してしまいました。この少年を赦すため、弟は「彼を知らない」と捕らわれて貨車に乗っていきました。ペトロがイエスを三度知らないと言ったその逆、むしろ命を犠牲としてささげようとする者から、彼を深く知り慈しむがゆえの「彼を知らない」という無言の愛。そのような命があることを深く知らされました。

●十字架で約束されたこと

この一週間、新聞・テレビなどでは東日本大震災五年を迎え、追悼、記念の報道を通して当時の映像と復興への歩み、人々の暮らしが報じられてきました。被災された一人ひとりの「あの時こうすればよかった」という消えぬ思いを受け止めました。あらゆる選択が、人間の思いと経験を越えてしまう出来事でした。
 後悔と痛みは決して消えることはありません。誰かを生かすために亡くなっていった人が大勢いました。そして生かされた者たちは同じことを繰り返さぬように語り継ごうとする人もあれば、それをなし得ない苦しみに潰されている人がいることも確かなことです。その中で人は一人で生きるのではなく、つながりによってしか生きられないことを知りました。
 主イエス・キリストを十字架につけた罪は肉体に痛みを与えたことではではありません。神とのつながりを断ち切ろうとしたことです。どれほどの人がイエスを自分と関わりのない者だとしたでしょうか。そして十字架の死へと向かわせたのでしょうか。この「ユダヤ人の王」という罪状のうちに、イエスとのつながりを断ち切ろうとしたのでしょうか。
 人々の罪の渦中にあっても、神は地にある人々とのつながりを捨て去ろうとはしませんでした。イエスと並び十字架にある罪人の「この方は何も悪いことはしていない」という神の赦しの計らいにつながろうという言葉において、イエスは「あなたは今日わたしと楽園に一緒に入る」(43節)という救いの完成を十字架にある罪人へ、また彼を通して神につながろうとする現在の私たちにも約束されたのです。
 震災によって避けがたい悲しみ、苦しみの中に私たちは落とされました。しかしその中にあっても神は我々を見放してはいません。十字架の主が苦しみの中でなされた救いの約束は、私たちが神から見放されず、神の国での場所を約束されているのです。それではお祈りいたします。

神よ 大いなる苦しみを与えられました。多くの命が失われ、多くの後悔、また自責の念がいまだに私たちの中に深く刻まれていることを思います。しかし主よ、どのような困難に遭ってもあなたは私たちに、その罪が分からずとも赦されていること、そしてまた主イエス・キリストに罪を見出さないのなら神の国が、楽園が用意されていることを今日改めて思わされました。困難にある者を今こそお支えください。また主が慰めと赦しと癒しの言葉を語りかけてくださいますように。主を信ずる者が僅かでもその業を担うことがかないますように。この祈りをここに集う一人一人の祈りに合わせ、主イエス・キリストの名によって御前にお捧げいたします。 アーメン (2016.3.13)

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