2014年11月16日 犬養光博牧師の礼拝メッセージ

共に喜ぶ

フィリピ 2:12~18
◆共に喜ぶ
 12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、16 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
(1)

皆さんおはようございます。
 去年の9月にここに寄せていただいて、1年ちょっとになりますけれど、再び皆さんと一緒に礼拝ができることを心から感謝したいと思います。
 1年というのはそんなに長い時間じゃないですけど、いろんな経験をされたし、私たちの国のことを考えるとますます闇が広がっていくようで、そんな中で私たちがいかに生きるのかということを問われていることを皆さん共通だと思います。
最初に11月の9日、浜松市憲法を守る会が行なったデモの時に配られたチラシを紹介します。毎月第2日曜日午後からデモが行なわれているのですが、今回がちょうど50年目の記念日だったのです。
 先ほどフィリピ書で、「星のごとく輝いている」(15)とありましたけれど、ボクは、茨坪伝道所もそうですけれど、この浜松の小さな集会や、また小さなデモも今の時代に星のごとく輝いているものの一つではないかなという気がするのです。こんな文章です。

『☆歩き続けて半世紀(今日は50年目の記念日)
     -浜松市憲法を守る会・平和行進の歩みと日本のいま-
 50年前11月の浜松市に置ける大軍事パレード

  • 50年前(1964年)10月、日本は東京オリンピックを成功させ国際社会に戦後の経済的復興を強くアッピールしました。
  • しかしそれは経済的復興だけではありませんでした。開会式で浜松航空自衛隊の飛行機が五輪のマークを青空に描いたことに象徴されるように、軍事力復興も国際社会に印象付けたのでした。
  • そしてその年の11月5日、浜松市において戦車百台が市街を行進し、空には戦闘機45機が舞うという大軍事パレードが行われたのです。
       その時一人の牧師が・・・
  • その時、一人の牧師が戦車行進の横を「戦争準備絶対反対」と書いたプラカードを掲げて、最後まで歩き通しました。非戦を誓った日本が戦争の準備をしてはならないという必死の思いが、たった一人のデモとなったのです。
  • これを機に、市民の有志によって浜松市憲法を守る会が結成され護憲平和行進が行われるようになりました。そして、1968年からは毎月第二日曜には必ず行われるようになり、今日まで一回も休まず今日で573回目、50年の節目を迎えました。
         日本のいま、日本の未来
  • 戦後70年、この国は戦力を持ったものの戦争をせず、他国の民を殺めず自国の民が戦争の犠牲になることもなく平和の道を歩んできました。
  • その礎となったのが平和憲法であり、戦争を放棄した第九条でした。しかしあろう事か、今年七月政府のごく一部の人たちによって、「集団的自衛権」と称すれば海外に出て行って武力を行使する事(戦争)は、憲法違反ではないという驚くべき解釈変更が行われました。
  • そして今それを実行できる法整備が着々と進められています。日本の未来は自衛隊が海外へ戦争に出かけ、他国の民を殺め、自衛隊員(彼らも自国の民です!)が柩に入って帰ってくる国になってゆくのでしょうか。
  • 私たち浜松市平和憲法を守る会はこのような国にならないよう、これからも平和憲法を守るための運動と平和行進を続けていきます。
    たった一人になっても・・・」

こういうチラシなんです。本当に少数ですけれども、星のごとく全国でこういう形の集会やデモが持たれるということが、ボクはやっぱり大きな救いだろうし、私たちは何もできませんけれども、諦めることなく与えられた場所での責任を果たしていかなければならないと思います。
 浜松の人たちが、少数の人たちですけれど、こういう形で50年間もデモを続けてこられたことに敬意を表したいと思います。

(2)

さて、一年前にここでボンヘッファーの言葉を引用して、「平和と安全」とは矛盾概念だという話をさせていただきました。それ以来一年間、ボクはやはりこの平和と安全とは矛盾概念だということを、生活の中でも、また書物を読む中でも一つ一つ考えさせられてきたような気がします。まだまだ自分の中でもすっきりしてないんですけれども、今日はその事柄に基づいてお話をさせていただきたいと思っております。
 一つの結論は、この浜松のデモもそうなんですけれど、皆苦しい顔をして、もう大変だからやらなきゃいかんというふうにしてデモをしておられるんじゃなくて、本当に喜びをもってというと言い過ぎになるかもしれませんが、本当に喜びの中でデモをされている様子を聞きました。
 厳しい時代の中で、私たち一人一人がだんだん滅入って、暗くなっていくときに、「喜ぶ」ということが私たちにとっても大きな目標じゃないか。そして喜びの問題を考えるならフィリピ書です。フィリピ書は喜びの書簡といわれているように、パウロが獄中で書いたにもかかわらず、そして『自分の命をあなたがたに捧げたとしてもわたしは喜ぶ』という言葉が示しているように、通常喜ぶことが出来ない場所で喜んでいるのです。
 ボクは自分の人生をふり返ってみて、自分の中で喜びがなかったなとつくづく思うのです。最初に筑豊に関わって(1961年)、それからしばらくして、一年休学して、1963年から64年にかけて筑豊の閉山炭坑の一隅に友人の松崎一先生と一緒に住んだんですけれど、その時婚約をしていたものですから、素子さんの方から沢山手紙をもらって、ボクも随分手紙を書いたんですけれど、あるとき彼女から朝日新聞の「サザエさん」の切り抜き入りの手紙をもらったんです。何ごとかと思ったら、「あなたの手紙は来る手紙、来る手紙が顔をしかめて、何か難しいことばっかり言ってるから、これ読んで笑いなさい」と書いてある。ボクはそんなつもりはなかったんですけれど、いわれてみるとボクはものすごい嫉妬深いし、何か難しい手紙ばっかり書いていたみたいで、サザエさんの漫画を送られたことが、自分自身の生活の中で、本当にこれでよかったんだろうとかと問われるきっかけになったんです。本当に喜びがない。
 「頑張る」とか「続ける」とか、それは得意な方、できる方なんですけれど、それを喜んでするとか、喜びながらやると言うことはできないことだったんですよ。
 福吉伝道所にいたときは日曜日には皆さんと同じように礼拝を守っていましたので、日曜礼拝を抜けるなんていうことはまずなかったんですけれど、福吉伝道所の責任を解かれて、松浦にきてから、わりかた日曜日を自由に使えるようになって、その関係で無教会の集会に呼んでいただいたり、茨坪に呼んでいただいたりしても、日曜でもあまり苦労なしに「ハイ」と行けるようになったのですが、近頃石牟礼道子さんの最後の講演会が福岡であったんですけれど、ボクは敢えて礼拝を抜けて石牟礼道子さんの講演を聞きに行ったんです。すごくよかったんですが、やっぱりどこかで日曜礼拝をさぼるというのはこれでいいのかという気持があるんですね。
 実は12月7日、これも日曜日なのですが、佐世保でベートーベンの第九をやるんです。佐世保まで一時間もかからずに行けるんですけれど、呼びかけがあって、合唱の部分に参加しませんかということで、素子さんと一緒にそれに参加しようと、その時は知らなかったんですけれど、日曜日なんですね。かなり練習もリハーサルも、土曜日、日曜日が使われるので、とてもこれまではそんなことはできなかったんですけれど、喜んでまではいきませんけれども、かなり痛みを感じながら、それでも礼拝を抜けて第九を歌おうということにしています。
 ベートーベンの第九は何度も聞いていたんですガ、歌うのは初めてなんです。ボクはバスなんですけれど、バスが一番始めに歌う合唱の部分は、「Freude 歓喜よ」というところですね。テナーがソロで歌っている途中で、バスが「Freude Freude 歓喜よ、歓喜よ」と入っていくわけなんです。せっかく歌っているのに、誰もきちんと解説をしてくれないんです。ボクも初めてなものですから、学んでみました。シラーという人の詞なんですけれど、すごい詞だと思うんです。ベートーベンがこの詞に曲を付ける時、彼は既に耳が聞こえなくなっていたんです。この詞に託しながら、ベートーベンがその中でも「歓喜よ」と呼びかけていました。それがどんなに大きなことだったかという事を今頃になって学ばされています。

(3)

「喜び」というのは何なんだろうと考えました。生活の中で喜びが本当に貴重なんです。喜びを私たちの生活の中で持つことが、問われていると思うんです。実は一人の友人が、もう亡くなったんですけれど、この喜びということについて本当にボクに教えてくれました。それをご紹介したいと思います。
 松尾達子さんという、吉谷さんたちと共通の友人なんですが、福岡で中学のころから結核に罹って17年ですか、結核で不治の病といわれて何度か手術を受けるんですけれど治らない。お金がないから学用患者ということで、「実験用に使われてもいいです」ということを一札入れて、お金を払わないで病院、九大だと思いますが、に入院して、そこで何回も手術を受けるんですが、全然治らないので、もう自分はこれでおしまいだと彼女も覚悟はしていたんですけが、奇跡的に治るんです。その時のことを後で書いた文章が遺ってまして、その見出しが「あめつちこぞりて」という見出しなんです。こんな文章なんですね。

『“ばくはつ”とはあのことでした。胸の内底よりいっぱいにあふれて、ほとばしって、声を出して、私は讃美しました。部屋中が私の讃美と和し、声をそろえる思いでした。
 声を出してうたう、とは、ついほんのさっきまで、この私がどうして、自分にも人にも思えたことであったでしょうか。絶え間ない咳にともなってあぶくのようにあふれてくる血痰と――気管支の出血が咳をこずかせ、その咳はまた出血をうながし――まことに食べることも、眠ることもできず、「バナナ一口食まんとすれば噴き出づる血の泡ただの半本も食えず」でありました。
 それは術後何日目のことだったでしょうか。第三回目の手術後は、麻酔より覚めて以来、湧いてやまない気管支からの出血に、くるしみつづけていました。(気管支瘻の手術であったけれど、弱い気管支は筋肉充填されきらなかったのでしょう)。翌日であったろうか、再開胸の覚悟を求められました。私がこたえるより前に、母が「これで手術したら死にます!」と医師を追いかけ(最適の条件にあっての手術さえ、解剖承諾書に捺印して手術室入りをしていたので、最悪の条件とその場を思って、おそろしかったのです)、延期となったけれど、夜のあまりの苦しさにその翌日は一刻も早く手術台に運ばれたいとねがったことを覚えています。ところが今度は医師の方が延期を決められました。手術直後の部屋から個部屋に移ってそれは四日目くらいのことでした。
 母としても何も仕事をしないでいるわけにはいかなかったのです。私は学術研究用の患者として入院費の一切は免除されていましたけれど、食費やその他の療養費は母のお蔭で支えられていたのです。それに完全看護制度が敷かれて間もなくであったので、つきそいは認められず(母も夜は帰っていましたが)、夜の苦しさを訴える私に母はどうしようもなく、母も私もその夕べは泣きました。そこに入ってこられた婦長さんのとりはからいで、特別につきそいさんをやとってよろしいように話してみましょう、ということになり、やっとほっとして母は帰っていきました。
せき上げてくるものとのたたかいの中、せんすべもない思いで、その日届いていた一通の絵葉書を、枕の横から左指先にとりあげて読みました。それは大阪の聖燈社の仲綽彦先生からのものでした。絵は何であったか忘れてしまったけれど、励ましのお言葉と共に、聖句が記されてありました。右の腋下から入っている胸液吸引のためのゴム管と胸に載っている砂のうのためというよりも、鉛のような身の重さのために上半身を動かせず、わずかに首をかたむけることができました。はじめは何気なく手にとったそのお葉書の聖句を一度読み、もう一度読み、更にくり返して読み、なおも目はそこに吸いつけられました。

あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。
わたしはすでに世に勝っている。(ヨハネ16・33)

――私のくるしみは何であろうか、死ぬまいとする苦しみではないか。助かりたいとするあせり、よくならないことへのいらだち、悪くなってゆくことへのおそれ――一括すれば「死ぬまい」とするあがきであり、苦しみへの拒否でした。その生に執着し、現状を不満とする精一杯の何ものかへの抵抗、それが私をがんじがらめにしていたのです。そこから抜け出せるものではなく、まさに死の床にあったのです。
 その聖句の中で、主は、死を目前にしておられました。それも残酷な十字架上の処刑の直前です。それなのに主は言われるのです、「わたしはすでに世に勝っている」と。
 「えッ?すでに死なれる前に勝っておられたのですか?」
不思議なことよ。不思議なことよ。私は左手を枕の左の上の方へ手さぐりの形でのばし、分厚い聖書をとらえました。ひきずるように枕の横にもってきて思いきり左目をつかいつつその聖句の個所を開きました。ヨハネによる福音書十六章の終節でした。
主は死を目の前にして、すでに勝っておられたのです。そして、「あなたがたはこの世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい」と、それもことばではなく、実に主御自身、極苦の死を遂げようとしておられながら、人生に勝っておられたのです。
 死はなぜいやなのか?それは人生を勝利していないからです。そこにおける何もかもが自分の生きざまの総決算であり、それは失敗にすぎなかった生きざまの悔いの集計であります。その自分自身の手の中に持っているかぎり、解放は来ないのです。(悔いのない苦しみはいかに輝かしい苦しみであろう)――。「己れを棄て、己が十字架を負いて我に従え」(マルコ8・34)と主は言われました。
 よし、わたしも死のう!こつぜんとして湧いた決意でした。くるしもう!死ぬことも、苦しむこともおそれまい。そう思いきったとき、りんぜんとして勇気はみなぎり、自由は胸内にあふれ、その自由はばくはつする歓喜を呼んだのです。うたわざるを得なかったのです。一声を出すにさえ、痰を誘発することを恐れ、極度に気管支の運動を、一呼吸一呼吸、押さえることに努力していた私が、声を出して、それもうたったのです。部屋の内も外も、私の肉体も何もかわらず、魂の内に起こった出来ごと!それは、私の肉体を動かし、それまで陰気にしずみ、 黙りこんでいた殺風景な部屋にさえもが、王者の部屋と化したのです。

あめつちこぞりて  かしこみたたえよ
みめぐみあふるる  父み子みたまを
おそれるものはもはや無くなっていました。死は迎えるものであり、苦しみは喜ぶべきものとなったのです。
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(コリント人への第二の手紙12・9) 』

これをボクは何度も読んできたんですけれども、今日、皆さんの前で喜びということについて話をするとすれば、この松尾達子さんが病床で経験した“ばくはつ”という証ししかないと思ったのです。彼女は[内に溢れてほとばしり出てきたそのこと]をこういう言葉で私たちに証ししてくれました。
 彼女の人生は本当に苦労に満ちた人生でした。自分の結核で苦しんだけではなくて、彼女は47歳で亡くなるんですけれど、結核の夫と結婚するんです。しかももう治ることがないと診断された結核患者の夫と病床で結婚式を挙げて、高橋三郎先生が司式されたんです。ご主人は亡くなるまで血痰を吐いておられました。全然治らんという人との結婚って、いったい何なのかと当初のボクは分かりませんでした。
 病床での結婚式は静かな結婚式でしたが、それは壮絶な結婚式だったと思います。夫の松尾道晏さんはその時のことを詩に残されています。

    1970年1月15日

妻をめとる
なんという その厳粛さよ

君は普段着のまま
ばくは病衣のまま
この重症室で ひっそりと

式はまずしくとも
聖霊に満ちあふれ
それでいいのだよ
それ以上のものはないんだよ

この世は 仮の住まい
やがて聖国へと とこしえまでも

外は雪
互いに顔を見合わせて
しばし微笑む

     (1970・1・15)

道晏さんの所へ何度も見舞いに行ったんですけれど、痰の壺が三つ並べてあって、話されるたんびに痰が出るものですから、痰がいつも溜ったままなんですね。食事時間に行ったら、「犬養さん、これが食事です」といって、卵をポンとサイドテーブルのふちで割って、ご飯にかけて食べておられたのを見ていました。その病院で亡くなったので、葬儀の時に最後に病室を覗いてみたら、卵を割っておられたサイドテーブルのふちが、そこだけへこんでいました。本当に苦しむために生きておられた、松尾道晏さん。達子さんはその人と結婚して、苦しみを共にして、道晏さんの最後を看取られました。彼女をずっと支えていたのは[主にある苦は喜び]でした。フィリピ書には「主にあって喜びなさい」と書かれていますが、彼女は「死」と闘って、主に在って解放されたのです。

(4)

[安全]と[平和]は違うというけれども、なぜ私たちは安全を求めて、安全であることを願うかというと、彼女は短い言葉で書いてくれたけれど、結局私たちは安全でありたい、つまり死にたくない。死に対していかに抵抗するか。そして“死”が解決しなければ、どこまでも私たちは安全を求める以外にない。彼女は厳しい経験の中からそういうふうに語ってくれました。でも死はどこかへ逃げたり、紛らわして解決できるものではなくて、彼女は自分の病の中で精一杯、死と向き合ったときに、仲さんという人が贈ってくれた聖書の御言葉に近づき、仲さん始めたくさんの人たちが祈りに覚えている中で、彼女は御言葉の中でキリスト・イエスに出会ったのです。そこで死は解決するんです。“死”というのは、私たちは恐れるばっかりだけれども、それを贖ってくださる方がいる。それを解決してくださる人がいる。それが私たちの主イエス・キリストだということを、彼女は彼女なりに精一杯証ししたのです。それが、 心のそこからの“ばくはつ”なんです。
ボクは残念ながら自分の中で歓喜が満ちあふれている、自分のみじめさや自分の苦しさや自分の弱さが自分の内側から崩されて、そういうふうになった経験というのはないんです。ボクはないんだけれども、そういう人たちを何人か与えられて、そういう人たちの祈りやそういう人たちの励ましの中で自分自身が生かされているということがどんなに大きなことかと思います。ですから、この闇の時代というけれども一人一人に問われていることは、私たちは死んでいくのだという“死”の問題。そしてその“死”は実は[キリストにあって解放されていますよ]ということだと思います。彼女はこの経験をしてから、自分の夫となる人にそのことを語ります。それだけじゃなくて、免田栄さんという冤罪で捕まった人ですが、彼女はその救援運動をずっとするんですよ。
 それから沖縄へ行って、沖縄の人たちの痛み・苦しみを彼女は本当に身に負って沖縄のために働きました。ところが彼女の最後は本当にみじめでした。「祈りの友」の集会が福岡で持たれるというので、その準備を整えるために、お弁当か何かを注文するために歩道を歩いていて、無免許の運転している青年の車が歩道へ乗り上げてきて、街路樹を突き倒して、彼女を突き倒してそれで亡くなるんです。
 周りにいる人たちは、なんて神さまは酷いことを、あんな天使のような松尾達子さんなのに、どうして最後は交通事故でそんなかたちになったの。それで、もう神さまなんかいない、信仰なんかわたしは持てないというふうに一時期苦しんだ人たちもあったようです。それぐらい衝撃を与えた事件でした。
 でも、ボクは密かに、思っているのです。どこかの集会で彼女は話したのです。「私ね、朝起きたらいつも新聞の交通事故の頁を見るんです」。朝起きて新聞の記事を見るときに、交通事故の死者のところを見るって。おそらく彼女は祈りをこめて、交通事故で亡くなっていった人の遺族やその人のために祈っていたに違いないし、ひょっとしたら神様に対して、「神さま、どうぞこの人たちの痛みや苦しみをわが身に負わせてください」、ボクは、そんな祈りを彼女はしていたんじゃないかなと思うのです。「主よ、どうぞこの人たちの痛みや苦しみを私の身に負わせてください。あなたが私の命を担ってくださったのなら私はそんなふうに生きたい」。それは彼女の祈りだったのじゃないかとボクは密かに思っていました。
 本当に酷い死でしたけれど、でも道晏さん、達子さんのお墓には「ほめよ ほめよ 救主の み名をほめよ」と書かれていて、彼女は死んでも星のごとく輝いて、「犬養さん、それでいいの、あなたの生活はそれでいいの。そんなに死を恐れていていいの。違うんじゃないの」と語っているんじゃないかなと思わされるんですね。

(5)

ボクは今日、皆さんと一緒に、「暗い時代に私たちはどう生きるべきか、どう歩むべきか」と問われたら、松尾道晏さん・達子さんが遺して下さったように、死から解放して下さる主が共に居て下さる、そこへ帰りたいと思います。ボンヘッファーは若くして死にましたけれども、彼が生きたのも同じ場所でした。彼の言葉はこうです。「現実は、キリスト・イエスにある現実しか私にはない」。
 だから1年前にここで言ったデンマークのファネーというところで語ったあの素晴らしい平和講演というのは、若いときのボンヘッファーの言葉ですけれども、その時の言葉と獄中に捕らえられ殺されていく、その間に「抵抗と服従」という形で、たくさんの手紙や断片が遺っていますけれども、彼にとってはすべて「キリストの現実に生きる」でした。「キリストの現実」というのはあの十字架にかけられたキリストが今も生きて、私たち一人一人と共にいてくださる、それ以外に無かったのです。
 第九の話をしましたけれど、言葉としてくり返しくり返し出てくるのは「歓喜、Freude」ということなんですけれど、その中で“Alle Menschen”ドイツ語で「すべての民」と“ganzen Welt”全世界、この言葉も何回も何回も出てくる。これは何かというと、主が全ての人たちと関係がある、全ての人たちを主は見守っておられる、全ての世界が主の現実の中にある。ボンヘッファーはキリストの現実という言葉でそのことを語ったと思うのです。信じているとか信じていないとか関係ない、宗教がどうとか関係ない、全ての人がキリストとともにある。そして私たちそのことを知らされた者は、キリストがそうであったように、松尾達子さんがそうであったように、喜びながら、一番悲惨なところ、一番苦しいところで神さまが共にいてくださることを確認しながら生きていこうじゃないですか。ボクはパウロがフィリピの人たちに宛てたこの手紙はそこに立っての喜びだったと思うのです。私たちはそういうキリストに出会える場所に集わせていただいていることを、そしてその中で私たちは共に歩むことができるんだということは、大きな慰めではないでしょうか。

朝日新聞で感動した記事があったのでコピーしました。10月15日の天声人語なんですけれども、
『早くに父が亡くなり、家には新聞を購読する余裕がなくなった。好きなので何とか読み続けたい。少年は新聞配達を志願した。配った先の家を後で訪問し、読ませてもらおうと考えたのだ。▼元島根県出雲市長で衆院議員を務めた岩國哲人(いわくにてつんど)78歳の思い出だ。日本新聞協会の新聞配達エッセーコンテストの大学生・社会人部門で今年、最優秀賞になった。題して「おばあさんの新聞」▼小学5年の時から毎朝40軒に配った。読み終わった新聞を見せてくれるおじいさんがいた。その死後も、残されたおばあさんが読ませてくれた。中3の時、彼女も亡くなり、葬儀に出て実は彼女は字が読めなかったと知る。「てっちゃん」が毎日来るのがうれしくてとり続けていたのだ、と。涙が止まらなくなった・・・・▼岩國さんはこれまで新聞配達の経験を語ってこなかった。高校の同級生で長年連れ添った夫人にも。しかし、今回、おばあさんへの感謝の気持ちを表す好機と思い、応募した。「やっとお礼が言えて喜んでいます」。きのう電話口で岩國さんはそう話した。(後略)』
 こんな経験をした人は悪いことをしませんよね、議員になっても。こんなことは誰でもできることではないですか。新聞配達の子供が新聞を読めないので、おじいさんがそのために読んで、見せてあげていたけど、おばあさんは字が読めないのにとり続けて、彼は市長になり衆議院議員になり、どんなたくさんの人たちに慕われたか、ということですね。
 ボクはなぜこの新聞を引用したかというと、彼はご夫人にもそのことを言わないで、本当に秘めて、秘め事ですよね。ボンヘッファーは、人間秘密を持つべきだと言っているんですよ。夫婦でも秘密をもつべきだ。秘密というと私たちは、自分は知っているけれどこんなことを言ったら大変なことになるから言わないでおこうということだと思っていますが、ボンヘッファーの言う秘密はそうではない。秘密というのはその人と神さまが対話している。だからその人は本当に祈っている。それは夫婦になってもその人から奪ってはならないもので、秘密を持たない人間というのは浅はかな人間だ、というのです。ちょっと言葉は違いますけれども、そういうニュアンスで、ボンヘッファーは秘密をもちなさいと言います。秘密というのは神さまがその人と語ってくれる場所。
 この人はきっと自分を育ててくれた、自分は字が読めないのに自分のために新聞を取り続けてくれた彼女のことが忘れられないで、歩み続けたと思うのです。ボクもやっぱりそういう人たちに支えられ歩んできました。
 そういう人たちをそこここに配置してくださっているのが、その根源である、十字架につけられたままのキリスト・イエスが生きて私たちと共にいてくださる。そのことを私たちはいろんなところで経験することを通して、死の問題というのは日常生活の中で私たちが問われ続けなければならないし、考え続けられなければならないことだと思います。
 ボク自身も解決できたわけではありませんけれど、いつも松尾達子さんという人が「犬養さんそれでいいの。それで大丈夫なの」と静かに見ながら、ボクに語りかけてくれているように思います。
 キリストの現実、それは神さまのことと人間のことが本当に重なっている場所。そのことを抜きにして私たちは逃げる場所を持たない。その場所でキリストが生きてくださったからこそ、そして死も本当に解決してくださったからこそ、私たちも生きていけるんだという場所に私たちがいることを皆さんと一緒に確認して、この暗い時代、共に歩みたいと思うのです。励まし合い、支え合い、そんな中で歩むことが出来ればと思います。お祈りをいたします。

主なる神さま ボクのような者を、こうしてこの場所で星のように輝き、歩み続けておられる茨坪伝道所の皆さんと一緒に礼拝することができました恵みを心から感謝いたします。私たちの中に解決することが出来ない問題が山ほどあります。山ほどありますけれど、それにもキリストが関わってくださっていることを大胆に信じ、私たちが恐れ、逃げようとする死を克服して、キリストの十字架がそこにあることを私たちも見つめながら歩んでいくことが出来るよう導きと守りとを与えてください。
 神さま どうぞ御言葉を学び、共に痛みや苦しみを分かち合いながら歩んでいるこの茨坪伝道所をあなたが祝福し、それが“Alle Menschen”、“ganzen Welt” というふうに歌われたように、全世界と関わっているし、全人類と関わっている事柄であることを聞かせてください。その中を歩ませてくださるように心から祈ります。神さま 午後から持たれようとしております集会の上にも、あなたの憐れみを与えてください。感謝とともに小さい祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。

                    アーメン

 

    引用図書
        松尾達子著『み名をほめよ 苦難に生きた信仰と愛の証言』(聖燈社)
        松尾道晏著『深い淵から』(聖燈社)

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