2018年8月19日 東のぞみ牧師の礼拝メッセージ

幸せな別れ

マルコ福音書 10:46~52
 

◆盲人バルティマイをいやす
10:46一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。10:47ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。10:48多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。10:49イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」10:50盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。10:51イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。10:52そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

おはようございます。
 まず、子どものお話をします。
 私は3年前に私のお父さんが亡くなりました。その時に、それまでで一番というくらい悲しい思いをしました。こんなに悲しいんだなと、自分でもビックリしたんですけれど、毎日のように思い返すのは、いちばん最後にお父さんと話した言葉なんです。バスがなくなるから私は帰らなくてはいけないんだけれど、お父さんが手を放さずに手をぎゅっと握って、「何もしなくてもいいから子どもをちゃんと育てなさいよ」と一言ったんです。「わかったよ。」と返すと、「だけどボクが一つ心残りなのは、なんだか戦争しそうな雰囲気だよね。どうか子どもが戦争に行かなくてもいいように、そればっかり願っているんだけどね」と言って、手をずっと握っていたんです。
 その言葉が今でも蘇るのですけれど、特に8月になると“そうだよな、そうだよな”と思います。戦争で亡くなった方は、きっとそういうふうに、伝えたい言葉も遺せずに亡くなっていったのかなと思うと、さらに切ない気持ちになります。
 今日は絵本を一冊持ってきました。「わすれられないおくりもの」という本ですが、教科書に載っていたので知っているかも知れませんが、読んでみます。

 「わすれられない おくりもの」 スーザン・バーレー  アナグマは賢くて、いつもみんなにたよりにされています。困っている友だちはいつもきっと助けてあげるのです。それに大変歳をとっていて、知らないことはないというくらい物知りでした。アナグマは自分の歳だとそう死ぬのが遠くないのも知っていました。アナグマは死ぬことを恐れてはいません。死んで身体がなくなっても心が残ることを知っていたからです。だから前のように身体がいうことをきかなくなっても、くよくよすることをしませんでした。ただ後に残していく友だちのことが気がかりで、自分がいつか長いトンネルの向こうへ行ってしまっても、あまり悲しまないようにと言っていました。
 ある日のこと、アナグマはモグラとカエルの駆けっこを見に、丘に登りました。その日はとくに歳をとったような気がしました。あと一度だけでもみんなと一緒に走れたらと思いましたが、アナグマの足ではもう無理なことです。友だちの楽しそうな様子を眺めているうちに、自分も幸せな気持ちになりました。夜になってアナグマは家に帰ってきました。月に「おやすみ」を言ってカーテンを閉めました。それから地下の家にゆっくり降りていきました。そこでは暖炉が燃えています。夕ご飯を終えて机に向かい、手紙を書きました。いすを暖炉のそばに引き寄せて静かに揺れているうちに、アナグマはぐっすり眠って、寝入ってしまいました。そして不思議な、でも素晴らしい夢を見たのです。
 驚いたことにアナグマは走っているのです。目の前にはどこまでも続くトンネル。足はしっかりとして力強く、もう杖も要りません。身体は素早く動くし、トンネルを行けば行くほどドンドン早く走れます。とうとうフッと地面から浮き上がったような気がしました。まるで身体がなくなってしまったようなのです。アナグマはすっかり自由になったと思いました。
 次の日の朝、アナグマの友だちはみんな心配して集まりました。アナグマがいつものように「おはよう」を言いに来てくれないからです。キツネが悲しい知らせを伝えました。アナグマが死んでしまったのです。アナグマの手紙をみんなに読んでくれました。「長いトンネルの向こうに行くよ。さようなら アナグマより」。森のみんなはアナグマをとても愛していましたから、悲しまない者はいませんでした。中でもモグラがやりきれないほど悲しくなりました。
 ベッドの中でモグラはアナグマのことばかり考えていました。涙は後から後から頬を伝い、毛布をぐっしょり濡らします。その夜、雪が降りました。冬が始まったのです。これからの寒い季節、みんなを暖かく守ってくれる家の上にも雪は降り積もりました。雪は地上をすっかり覆いました。けれども心の中の悲しみを覆い隠してはくれません。「アナグマはいつでも側にいてくれたのに!」みんなは今どうしていいか、途方に暮れていたのです。アナグマは「悲しまないように」と言っていましたが、それはとても難しいことでした。春が来て外に出られるようになると、みんな互いに行き来してはアナグマの思い出を語り合いました。
 モグラは、はさみを使うのが上手です。1枚の紙から手をつないだモグラを切り抜けます。切り抜き方はアナグマが教えてくれたものでした。初めのうち、なかなか紙のモグラはつながらず、ばらばらになっていました。でもしまいに、しっかりと手をつないだモグラのくさりが切り抜けたのです。その時のうれしさは今でも忘れられない思い出です。
 カエルはスケートが得意です。スケートを初めてアナグマに習ったときのことを話しました。アナグマはカエルが立派に一人で滑れるようになるまで、ずっと優しく付いていてくれたのです。キツネは子どものころ、アナグマに教えてもらうまで、ネクタイが結べなかったことを思い出しました。「幅の広い方を左に、狭い方を右にして首にかけてごらん。それから広い方を右手でつかんで、狭い方の周りにくるりと輪を作る。輪の後ろから前に広い方を通して、結び目をきゅっと締めるんだ。」キツネは今どんな結び方だってできますし、自分で考え出した結び方もあるんです。いつもとても素敵にネクタイを結んでいます。
 ウサギの奥さんの料理上手は、村中に知れ渡っていました。でも最初に料理を教えてくれたのはアナグマでした。ずっと前アナグマは、ウサギにショウガパンの焼き方を教えてくれたのです。ウサギの奥さんは初めて料理を教えてもらったときのことを思い出すと、今でも焼きたてのショウガパンの香りが漂ってくるようだと言いました。みんなだれにでも何かしらアナグマの思い出がありました。アナグマは一人一人に別れたあとでも、宝物となるよう知恵や工夫を残してくれたのでした。みんなはそれで互いに助け合うこともできました。
 最後の雪が消えたころ、アナグマが残してくれたものの豊かさで、みんなの悲しみも消えていました。アナグマの話が出るたびに、だれかがいつも楽しい思い出を話すことができるようになったのです。ある暖かい春の日に、モグラはカエルと駆けっこをした丘に登りました。モグラがアナグマが残してくれた贈り物のお礼が言いたくなりました。「ありがとう、アナグマさん」。モグラは、なんだかアナグマが近くで聞いていてくれたような気がしました。そうですね。きっとアナグマに聞こえたに違いありませんよね。

 「という話でした。大切な人に大切なことを、安心して伝えていけるような世界になれたらいいなと、ずっとそれが続くといいなと思っています。 それではお祈りします。

 「神さま 今朝もこうしてみんなで集まってお祈りをしたり、讃美歌を歌たりするときができましたことを感謝いたします。また私たちが辛い時にも、あなたが側にいて下さること、本当にありがとうございます。神さま私たちはいろんな出会いを経験して、又いつか別れもあります。神さま、私たちはたくさんの人に支えられて、また私たちも誰かを助けて日々歩んでおります。神さま、私たちが戦争でそんな絆を断ったり、誰かを苦しい思いに追い込んでしまったり、そうしたことを行わなくても、本当に安心して、みんなで協力し合って、支え合って、歩んでいくことができる世界を、これから造っていくことができるようにしてください。イエス様がいつも私たちの側にいてくださることを覚えて、私たちが悲しい思いをしている人や、ひとりぼっちの人に寄り添うことができるように支えてください。この祈りをイエス様のお名前をとおしてお捧げいたします。 アーメン

 それでは大人の方のお話しに移ります。
 8月15日の戦没者追悼記念式の首相の式辞は聞かれましたでしょうか。私はニュースでしか見ていないのですが、今年も加害と反省の表現を盛り込まなかったと報道されました。その替わりに「国の未来を切り開く」という表現が用いられて、謝罪ばかりを繰り返さないという姿勢を示したということです。一見、前向きであるかのような姿勢ですけれども、独りよがりな解釈で、実のない未来志向にはむなしさを感じるばかりです。
 ちょうど同じ15日には、「ニュース23」という番組で女優の綾瀬はるかさんが、満州から引きあげてきた女性たちの元を訪れてお話を聞くという特集がありました。彼女は毎年15日に戦争体験者の方を訪問して話を聞くということを続けているそうなんですが、今回は満州引き上げを経験した女性に話を聞くということでした。
 敗戦後、満州を開拓していた人々は引きあげようと必死になるのですけれど、日本軍が我先にと列車に乗り込んでしまって、一般の人たちは引きあげるすべがなくて、混乱の中に置き去りにされてしまった。そして非常に苦労されたということでした。
 そうした中でロシア軍がやってきて、女性たちは年齢を問わず暴行を加えられたということでした。あるいは村の人たちが村人全員を守るために性接待という名前で、17歳以上の単身女性が人身御供として、身体を差し出すように求められたということで、結局暴行によって命を落とされた方も多くて、何とか助かって命からがら帰国することが出来た人も、帰国してから心ない言葉に傷ついたり、非常に差別されて村を出て行かざるをえなかった。故郷を出て行かざるをえない人たちもいた。
 御覧になった方はご存じだと思いますけれども、こうした取材に応じて表現してくださったり、手記を残されている方は、そういう体験をされたほんの一部の方でしょうから、きっと多くの方々が戦後、平和な時代においても声を挙げることができず、そのまま生涯を終えられたのかと思うと、胸が潰れるような思いがいたします。

 この番組を見ている時に私は台湾の女性たちのことを思いながら見ておりました。慰安婦という言葉が以前は使われておりましたが、最近は戦時性奴隷という言葉が使われていますが、奴隷として慰安所に連れて行かれた方々のことを思い返していました。私が台湾に留学していた時に、たまたま友人の紹介で数日間滞在していた山の教会があったんですけれど、先住民の方の教会です。 毎朝早く教会へ来て掃除をしているひとりの女性がいました。非常に高齢だったのですけれど、重い身体ながらに一生懸命掃除をされていた。話しかける機会があったのでほんの少しお話しをしましたら、「私は戦争中に悪いことをしたので、こうして掃除をして償っているんです」という言い方をなさいました。もう少し詳しく伺ううちに、はっきりとは言われなかったんですがおそらく慰安婦として辛い経験をなさったのではないかということが分かってきました。 台湾の先住民族は高砂義勇隊として南洋へたくさん送り込まれていったんですけれど、最前線で日本軍の食糧を補給するような働きが多く担われていって、ときには日本軍の弾よけとして扱われるといった状況もありました。こうして送り出されて残された妻たちの中には言葉巧みに騙されて日本軍の慰安婦として強制的に働かされた人が大勢いたそうです。「旦那さんに会いたいでしょう」、「会えるよう」とか言われて南洋に連れていかれた。 私がたまたまその方からお話を伺ったというのは突然のことで、思いがけないことでした。正直たじろいでしまった。同時に彼女が「私が悪いことをした」と、戦後50年経っても自分を責められていたというのはショックを受けました。お子さんもお孫さんも一緒に通っているその教会で、どういった思いでそのような告白をして掃除を続けておられるのか。日本から本当にぼんやりとやってきた私は、本当にその時は言葉を持たない、情けないなといった思いをただ自覚するばかりの出会いでありました。
 “あなたが悪いんじゃなくて、あなたをだまして、あなたに暴力を振るった日本の責任だ”ということが公に認められて、もしもそのことできちんと補償が受けられたならば、彼女のその後の歩みはきっと変わっていたのではないかなと思うのです。そうした人々を置き去りにして、安倍首相のいうような未来志向で切り開いていった先には、一体どういった景色が広がっていくのかと想像すると、非常に恐ろしくなりますし、これを前向きな姿勢というふうには到底とらえることはできないと思っています。
 先ほどの満州の女性にしてもあるいは原爆を経験した土地の人々にしても、戦争の被害者であり、同時に日本が台湾やアジアの国々で行ってきた加害者であるという事実。いずれの事実にも誠実に向き合うことができなければ前を向くことはできないと思うのです。戦争のことを語ってくださる方は本当に高齢になられていて、綾瀬はるかさんが訪ねた方も90歳を超えていらっしゃる方です。亡くなっていたから方、その後その方を知る人が語り部となっていたんですが、本当に多くの方が既に亡くなっている中で、どういった体験をされたのか、どういった思いを持って歩んでこられたのかということをできるだけ丁寧に伺っておきたいなと、改めて感じています。受け止めて心に刻んでいくということが、時代を引き継いでいく私たちの大切な仕事ではないかと思うからです。
 先ほどお読みしました「わすれられないおくりもの」という絵本ですけれど、こちらはイギリスの作家でスーザン・バーレーという方のものです。このお話は小学校の3年生の教科書にも載っていまして、子どもたちは結構知っているお話しなんです。
 以前、私は、人は亡くなる存在であるということは、人はいずれ亡くなる存在であるということは、だれもが知っているけれども、それを子どもに伝えるというのはすごく難しいのではないかなと思っていたんですけれど、私の父が亡くなった時に孫である子どもたちは非常に悲しんだんですけれど、少しずつその現実を受け入れていくことをしていく、そういう努力をしている様子を見て、死について考えるのに早すぎるということはないんだなということを改めて思い直しました。 私自身が今ホスピスに勤めていますので、人が亡くなるということが私にとってはある意味では日常に近い状況にあって、いずれは自分にも順番が回ってくるんだなということが自然に感じられるようになってきました。それまで、変な話なんですけれども、心のどこかで自分は死なないというか、遠いものという感覚があったのかなと思います。でも父の死というものがあって、それをより身近に感じるようになって、終わりがあるのだから今どう生きていこうかという考え方にシフトしてきたという実感があります。
 又それまでは、死は突然やってくるという漠然としたイメージがありましたけれど、実はこの生活の延長線上にあるもので、死を前にしたら格好いいことが言えるわけではないし、悟りを得られたり、揺るぎない信仰というものがわいてきたりするわけでもないでしょうし、生きてきたままの自分が最期を迎えるのだなと思うわけです。不満ばかり言っていたら不満を言って旅立っていきますし、家族のことがいつまでも心配なのは変わらないでしょうし、あるいは冷蔵庫の中にある昨日残したお豆腐のことが諦められないで旅立っていくのかなと、私のことだからな、と想像するわけです。
 いずれにしても、自分にも家族や周りの人にもやがてはお別れのときが訪れることを知る、覚えることによって、私たちは今をどう生きるのかということに向き合えるのかなと思っています。
 あるホスピスの医師として働いてきたドクターがインタビューの中で、ホスピスに来る前の一般病棟で働いていたときの患者さんとのエピソードを紹介していました。今ではもう癌の告知のいうのは一般的になってきました。でもかつては告知は控える、家族には伝えるけれどもご本人にはお伝えしないということが一般的であったと思うのですが、本人に伝えるにはあまりにも残酷というか、辛すぎるからという配慮からそのようにしていたかと思うのですけれど、実際にそういう状況を経験されたご家族のお話を聞くと、告知はやっぱりした方がよかったのかなと言われる方の話では、「私は隠す。でも当人はうすうす気づいている。探り合いのようなことが続いてその緊張感でお互いが疲れて、へとへとになった」というようなことを言われていました。
 そういった告知については控えるといった時代にあって、はっきりと告げられていなかった患者さんがちょうど年末に、ふとした時に「先生、私は桜を見ることはできますか」と尋ねられたそうです。その時に非常にドクターは躊躇したんですけれど、本人が本当に願っていることは何かと考えた結果、真実を伝えるべきだと判断して、「無理だと思います」とドクターは正直に答えられたそうです。するとその患者さんは「先生、ありがとう」と言われて、「そうではないかなと思っていましたがやはりそうでしたか。このまま知らずにいたら、家族に伝えたい言葉も遺せないでしょうね」と言われたそうです。自分に残された時間を知って、それまでに何をしておかなければならないか。何がしたいかを考える時間が与えられたということで感謝されたということでした。自分の時間には限りがあるということを知ることで、家族や大切な人にお別れをいうことができるかも知れませんし、短い間でも目標をもって最後まで生きることができる。「ありがとう」という言葉にはそのような思いが込められていたのではないでしょうか。
 ホスピスでは最後までその人らしく生きることを支えていこうというのが共有されています。患者さんの中にはいろんな目標を持っておられる方があって、その思いを何とかサポートしたいと、スタッフやボランティアはしています。起き上がれるギリギリまで自分の力で、演奏したい曲を最後まで練習された方もいますし、語学の勉強、スペイン語を習得したいということで、ギリギリまでチャレンジされていた方もいましたし、最後まで自分らしく生きるという願いを私たちはどんな時代にあっても大切にしていきたいなと思います。
 先ほどの絵本ですけれど、亡くなっていくアナグマさんは自分に残されている時間を静かに受け入れていきました。また周りにいた友人たちは彼を失ったことで、大変悲しみましたが、アナグマの残していってくれた豊かさで満たされ、前へと進むことができました。アナグマの姿、もうはこの世では見られませんが、アナグマの教えてくれた忘れられない贈り物をとおして、アライグマの優しさをまた願いを感じることができた。やがてそれがみんなの生きる力となっていきました。 その人の肉体はもうこの世にはないけれども、一人一人の心の中にその人からの贈り物がある限り、その人は生き続けるのだと思います。

 今日読みました聖書では、イエスが弟子たちや大勢の民衆と行動をされていた中で、バルティマイという人が道端に座り、イエスに向かって叫んでいました。叫び続けていたところ、多くの人たちがこの人を叱りつけて黙らせようとしたと書いています。マタイとルカの並行箇所を見てみますと、同じように叱りつけられているんです。どうしてみんなしてこの人を叱りつけたのかなと不思議に思えてくるんです。
 例えばイエスに唾を吐きかけたり、侮辱するような暴言を投げかけていたのならば、叱りつけるのも分かる気がします。彼は「わたしを憐れんでください」と叫んだわけです。つまり「助けて」と言っていたわけです。助けてと叫んで叱られるなどということは、ありうるのかなと思うのです。いかが思われますか。 例えばバルティマイが目が見えなかった、障がいを持っていたということで、非常に差別されていたために、声を挙げて何かを主張するということが非常に咎められたのかなと思うのです。あるいは叫ぶタイミングや叫び方に問題があったのかなといろいろ想像しますが、理由ははっきりと書かれていませんが、おそらく私は、彼が叫んだことで自分の心がざわついた人が、彼を黙らせようとしたのではないかなと感じています。
 彼の叫びに都合の悪さを抱えた人たちが大勢いたのではないでしょうか。今まで自分たちが、彼の願いや本当の声に向き合ってこなかった。そうした人たちが何か後ろめたさを感じて黙らせようとしたのかな。都合が悪いと感じたのかな。そういった事を思ったり、あなたが本当に自分の願っていることを言ったところでどうせ無理なんだ、ということで黙らせようとしたのかなといったことを想像しています。
 けれどイエスを前にしてバルティマイは叫ぶことを止めようとはしませんでした。止められなかったわけです。叫ばざるを得なかった。目の見えない彼に向かって何人もの人が黙らせようと向かってきましたけれども、大きな声で叫び続けました。そしてやっとイエスを振り向かせて、彼がずっと言いたくても言えなかった本当の思い、「目が見えるようになりたい」ということができました。
 案外私たちは本当の思い、本当の願いというのは口に出して言う機会というのは少ないのかなと、バルティマイを見ていて思うのです。患者さんから私は何気ない機会に、とても重い言葉を投げかけられることがあるのですけれど、「私はもう死ぬから」とか「私はもっと人に愛されるように生きてくれば良かった」というようなことを、お茶を汲んで「どうぞ」と言っている瞬間にさっと言われることがあるんです。ワーと思って、どうしようといつもドキッとするんですけれど、そんなときに思わず言いってしまうのが、「そんなこと言わないで」とか「大丈夫ですよ」とか、非常に根拠のない励ましを言いたくなってしまうんです。
 これは違うなと思うのですけれど、どうしてそんなことを言いたくなるのかなとよくよく考えてみると、おそらくその場をにごして早く立ち去りたいと感じているからではないかな、と気づいていきました。その人の言葉を受け取ることができない。怖くて自分を守りたくなっているのではないかなと思いました。 けれど患者さんが望んでいるのはそんな私の励ましや、根拠のない安心の言葉掛けではなくて、絞り出した言葉を聞いてもらう、ちゃんと聞いて欲しいということではなかったかなと、いつも反省をしながらいるわけです。よく看護師さんに相談したりするのですけれど、「私に答えを求めているわけではなくて、絞り出す言葉を聞いて欲しい。そして話すうちにやがて自分が求めていた言葉であったり、その人が本当に願っていることが、その方自身の口を通して語られるから、それを待つんですよ。私たちは待つことが仕事なんですよ」と教えられます。その方が求めている答えは、その方の中から出てくるから、私たちが与えることではないんだ。なるほどなと思います。
 バルティマイを取り囲む人々は、彼の言葉を待つことが怖かったのかも知れないなと感じるわけです。自分を守ろうとするあまり、バルティマイの言葉を聞くことができなかった。けれども彼はこの言葉を挙げることで、聖書には目が見えるとか書いてありますが、本当に目が見えるようになったのか、あるいは彼が進むべき自分の本当に歩んでいきたい道を、自分で決めていくことができるようになったのか、いろんな解釈ができると思うのですが、そうやって彼は自分の道を歩むことができたし、イエスに従ったとありますが、イエスによって病の治癒を経てイエスに従ったというのは、バルティマイだけかと思うのですが、イエスのあとにしたがったということは、彼がそれまで望んでいた歩みを歩んでいくことができたということかなと思います。
 周りが何もしなくても、その人が自分の気持ちを語ることで、その人のその後の歩みが変わっていく。また、場合によっては歩みによって周りの人々も歩みをかえられていく。そういった経験が生まれていくのではないかなと思うわけです。 冒頭に戦時中のことについて触れましたが、私は声を挙げようとしてきた辛い経験を強いられてきた人々に、自分自身がどのようであったかなと考えます。台湾で出会った女性とのやりとりのことを思いますけれど、自分を守ることを優先してきたのではないかなと思うわけです。叫びを受け止めようとしてきたかな?叫びを上げる人を遠回しに止めることをしてきたのではないかなと思うわけです。そして多くの方々が、そのままこの世界に別れを告げて旅立っていかれている。その別れに際して、そういった方々はどういった思いを持っておられただろうかと、胸が締め付けられる思いがします。 少なくとも彼女たちの証言を聞いて、戦争の恐ろしさやたくさんの人々の悲しみを教えられ、知る者として、私たちは叫ぶ存在を黙らせる者であってはならないと思いますし、叫び続けなければならないと思うわけです。

 8月のこのとき、私たちはかの戦争を思いおこし、反戦への誓いを堅くするとともに、平和についても思いを強くするときであると思います。平和であるというのはどういうことか。いろいろな定義があると思います。日本語の「平和」と書いて「和」は「禾(ノギ)・稲穂」が食べられるということで、平(たいら)に食物が得られる、みんなが飢えていない状態が平和なんだよ、と以前教えられたことがあったんです。
 それも本当に平和だなと思うのですが、あるいは一つの定義というか考え方として、幸せな旅立ちができるということも一つの平和ではないかなと思っています。私の体はこの世から旅立って、見えなくなっていくけれども、この思いはあの人に受け止められ、私の言葉や願い感謝の気持ち、うまく表現できなかったかも知れないけれども、確かに私が抱いていた愛情をあの人に送ることができたと感じられる別れ。最後まで人間らしく生きることができたという納得のようなもの。そのような別れが当たり前となるようなことが平和なのではないかなと感じています。だれもが迎えるその日は、いつもと変わらない日常の先にあるものです。自然の流れの中に私たちは生かされていることを思いつつ歩むことができればと願っております。お祈りいたします。

 愛する神さま いつも私たちの側にいて下さり、感謝いたします。あなたはいかなるときにも私たちを見捨てることなく、私たちの叫びを受け止め、私たちの力を引き出し、また私たちを信じて待っていてくださる方であります。あなたにすべてを委ね、最後のときまで日々を歩むことができますことは、私たちにとって本当に大きな恵みであります。8月のこの時に私たちは改めて戦争についてまた平和について思いを新たにし、祈りを合わせることを大切にしております。どうかたった今にも、この世に生み出された命が何よりも大切にされ、それぞれに与えられた時間を幸せに過ごすことができるようにお守り下さい。そして私たちが先人から与えられた智慧や言葉を受けつぎ、あなたの平和へと連なることができますように。岡崎茨坪教会の日々の歩みをどうかお支え下さい。病や不安を抱えた方がおられましたら、どうかあなたが寄り添い助けてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。
                     アーメン

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