伝道所の歩みとわたしたちの主張

わたしたち茨坪伝道所は、1977年から始まった西三河聖書研究会を母体として、1981 年9月に近隣諸教会の祝福のもとに日本キリスト教団の伝道所となりました。小さな群れではありますが、不思議な神さまの導きのもとに、新しいメンバーも加えられ、豊かな信仰生活が与えられてきました。そして、2001年9月には、伝道所発足20周年記念の集会を持つことが出来ました。07年3月には林牧師が30年の区切りで隠退。残念なことに、08年12月に林牧師が逝去されました。そして、08年12月に三好鐵雄牧師が就任され、活動が続いています。

伝道所の歩み

1977年4月 日本キリスト教団岡崎教会を出た有志を中心に「西三河聖書研究会」が発足する。5月には林牧師に第1回の説教をお願いして以来、月に1回の説教を担当していただいた。以後30年間続いた。西三河聖研の時代は、市内の公共施設を借用して集会を続けた。
1979年4月 仲間のお宅の庭に、茨坪集会所完成。以後、そこを拠点に活動する。
1981年9月 近隣諸教会、とくに西尾教会の杉本誠牧師のご努力により、日本キリスト教団中部教区の認可を受けて、日本キリスト教団岡崎茨坪伝道所として出発する。林牧師を担任教師としてお迎えする。
1991年9月 岡崎茨坪伝道所発足10周年記念集会。アベル聖書研究会主宰者で・名古屋学院大学教授の梶原寿牧師が講演。林 晃牧師の説教集『わたしたちの告白』を刊行。
1997年11月3日 伝道所発足15周年記念集会。講師に島 しづ子牧師を迎えて講演会。その頃から、協力牧師として島牧師には月1回の説教をお願いする。
2000年12月 茨坪集会所を改築(「すみれの家」と名づけています)。新築の集会所でクリスマスを祝う。
2001年9月30日 伝道所発足20周年記念集会と礼拝。日本キリスト教団代々木上原教会の村上 伸牧師の講演と礼拝説教。
2004年5月 「イラク戦争に反対するキリスト者宣言」を発表。全国から500数十名の賛同を得て、アメリカ大統領および日本政府などに送付。
2004年5月 林牧師の説教集『イエスの実像と虚像』を新教出版社から刊行。
2007年3月 林晃牧師隠退。林牧師の著著『神、私たち、そして今』を出版。名古屋堀川伝道所の島しづ子牧師に代務をお願いする
2008年12月 林晃牧師昇天される。主任担任教師として三好鐵雄牧師就任。島牧師が代務者を辞任される。
2014年3月 三好牧師隠退。約6年間の牧会の奉仕に感謝。今は無牧で、他の協力牧師に説教をお願いしながら活動を続けています。

岡崎教会での活動については、村上牧師が書いた下記の論文を参照してください。また、西三河聖書研究会時代から伝道所開設初期の活動に関しては、林牧師が書いた下記の論文を参照していただければ幸いです。

  • ★ 村上 伸:「戦責告白との取りくみ」、福音と世界、1972年8月号
  • ★ 林 晃:「信徒の教会をめざして」、福音と世界、1985年11月号

茨坪伝道所の特色

わたしたちの伝道所の特色を短く紹介した文章があります。それは、大分昔ですが、1984年に出された「愛知東地区だより」に書かれた米田さんの文章です。簡潔に言い得ていますので、それを次に載せます。


教会紹介2 岡崎茨坪の新しい試み

岡崎茨坪伝道所信徒   米田 俊周

岡崎茨坪伝道所は、岡崎市の中心から約4キロ北の丘陵住宅地にある。集会所の東の窓を開けると、「わたしはまことのブドウの樹、あなたがたはその枝である」とのみ言葉の通り、そこに本当のブドウ畑があり、北は柿畑である。近くに小さな畑を無償で貸してくれる人があって、CSの畑として、いまタマネギとジャガイモが育っている。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださるのは神である」を実地教育させるつもりであったが、子どもたちの興味は取り入れのときだけのようである。

集会所・・・・私たちは立派な教会堂を建てることを目指さないし、そこを聖なる場所ともしないという意味でこう呼ぶ。・・・・は畳敷きの10坪足らずの小さな建物であるが、入り口はスロープ、車椅子のまま入れるトイレと、私たちの主張だけは取り入れた。集会所は地域のさまざまな集会に利用されている。

教会員10数名の伝道所は、大きな教会にはできないさまざまな実験をしている。その一つは、自由献金である。最も純粋な気持ちで献金できるようにしたい、少人数の中での月定献金には抵抗があるなどの意見が出され、話し合いの上で全くの自由献金とした。たまに会計さんがピンチ!のサインを出すことはあっても、今までは必要なものは与えられてきた。

教会員の多くが、社会問題に首を突っ込んでいるのも、当伝道所の特色の一つであろう。在日朝鮮・韓国人問題、管理教育反対、女性の解放と自立、真宗大谷派とのヤスク二問題の共闘、障害者問題、境川流域下水道問題、人権問題など。時には、教会として特別集会を行ってこれらの問題を考えることもあるが、多くは教会員が個人としてかかわっている。問題は、これらの集会が礼拝時間と重なって礼拝出席が少なくなることである。

しかし、私たちはこれらの諸集会への出席を礼拝の延長線上でとらえてきた。所属を明らかにし、キリストの証人として発言してきた。キリスト者にとって礼拝出席が最も大切なことではないか、と非難されそうなのは十分承知している。結論は、もう少し先にしていただきたい。これも一つの実験なのだ。

牧師と教会の関係についても、一つの確認を行った。教会の運営を信徒中心にし、牧師は従来の立場より一歩下がった立場から指導してもらうという点である。今、総会準備、年度計画、CS、特別集会、会計などは信徒の手ですべて立案、実行されている。

あるところで、茨坪は牧師の働きを軽んじているのではないかとの質問を受けたことがあるが、それは誤解である。私たちは、他教会の人と同じように、牧師を尊敬し、その説教を心をこめて聴いている。牧師は信徒の自立を助け、教会は信徒のエネルギーで働く、というのが本来の姿ではないかと思うのである。それ故、この教会紹介も牧師ではなく、信徒のわたしが書いた。今後の教会紹介も、信徒の手で記されることを期待するゆえんでもある。

米田さんが書かれた当時と今とでは、集会所の周りの状況は大分変わってしまいました。大分家が建て込み、畑もなくなり、最近、大きな道路が目の前を走るようになり、騒音が厳しくなりました。信徒も増えたために、集会所の建物も少し大きくしたので、集会しやすくなりました。しかし、東隣りのブドウ畑は変わりがありません。そして、教会の基本姿勢も変わりはありません。

さらに詳しく知りたい方は、この下を読んでください。


わたしたちの主張

わたしたちの伝道所の最も大事にしていること、教会形成の柱を簡単に紹介しましょう。
  1. 1.戦責告白を担う教会になろう!
    1)戦責告白と「わたしたちの告白」
     1967年、日本のプロテスタント・キリスト教会の一つである日本キリスト教団は、鈴木正久議長名で、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(以下、戦責告白という)を発表しました。それは、教団があの太平洋戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを内外にむかって声明したことは誤りであったと認め、将来に向かう教団の姿勢を明確に示したものです。この告白は、教団内に共感と同時に激しい反発を引き起こし、教団内諸教会の対立と混乱の先駆けとなりましたし、今もそれが形を変えて続いています。しかしそれは、遅きに失する感はありましたが、戦後の宗教団体でははじめての、戦争に協力したことへの責任の告白であり、他の教派や宗教教団にも波及していき、良識ある宗教者や学者・文化人に大きな影響を与え、反戦・平和運動や戦争責任を忘れまいとする、大きな戦後史の流れを作ったと評価しています。
     当時、日本キリスト教団岡崎教会にいたわたしたちの仲間は、この告白が現代の日本に生きるキリスト者として避けて通ることが出来ない問題であると感じ、岡崎教会の中でこの告白を学ぶ「戦責ゼミ」を作りました。そして、日本のキリスト教会の歴史を学び、世界のキリスト教会の歴史とその中でつちかわれた諸教会の信条や告白を学びました。そして、戦責告白の精神を岡崎教会の告白として受け入れ、具体的に告白文を起草し、それを教会総会に提起しました。紆余曲折がありましたが、「わたしたちの告白」が1974年の教会総会で採択されました。
     しかしその後、牧師が変わり、告白の目指すところをあいまいにし、告白の内実化が決定的に危ぶまれる状況になって、わたしたちの仲間は、失意の中で岡崎教会から去りました。しかし、その告白の精神を持って新しい教会を作ろうと、西三河聖書研究会を立ち上げて活動することになったのです。その最初に応えてくださったのが林牧師でした。それ以降、今日まで「わたしたちの告白」を礼拝で唱和しています。
    2)戦責告白を担うということ
     戦責告白を担うということは、その当時の現実の社会と時代に生きたイエスの生き様から学び、政治や社会の問題と信仰とを切り離さないこと、イエスがそうであったように社会的弱者と共にある生き方を求め、各自の置かれたところで真実に地の塩としての役割を果たすことです。教会は、キリスト者は、時代の問題を担いつつ、信仰によって生きるということです。教会繁栄が自己目的ではなく、教会は社会のために存在するということです。どの宗教教団も、信徒を増やし、立派な会堂を持ちたがるようです。キリスト教会もその例外ではありません。そのために、教団・教会の組織を整え、信徒の反感をかうような説教はせず、信徒の対立を恐れて政治や社会の問題を話題にするのを避け、当り障りのない話をして、信徒に伝道!、伝道!と、新しい信徒の獲得に勤める例が多くあります。しかし、そのようなあり方は、イエスの生き様とはまったく違います。
     イエスが貧しく、弱く、差別された人々の友となって活動したように、現代の問題を担いながら生きることが求められています。そのために、具体的には、わたしたちの仲間は、反戦・平和の運動、反天皇制の運動、反公害運動、教育市民運動、身障者・介護の運動、差別をなくす運動、人権保護の運動、環境保護の運動など、各種の問題にかかわってきました。一人ひとりの状況の中で個人がかかわるわけですが、必要に応じて教会をあげて関わることもあります。わずかなことしか出来ませんでしたが、その志をいつも神の前で確かめられつつ生きてきました。またそのことを通して、わたしたちの信仰が鍛えられ、教えられてきたことも事実です。市民運動の仲間に、心から感謝しています。
     だからといって、政治や社会の問題ばかりを議論しているのではありません。わたしたちが政治や社会の問題に取り組むのは、あくまでもイエス・キリストの生き様とその信仰からであって、政治活動や社会活動に主眼を置いているのではありません。わたしたちの生き方の根っこは、イエス・キリストにあります。
    わたしたちは、そようなの姿勢を堅持して生きたいと願っています。
  2. 2.信徒中心の教会であること
    1)なぜ信徒中心の教会か
     プロテスタント教会は、「聖書のみ」、「信仰のみ」、「万人祭司」を原理原則にして教会を形成してきました。ところが、「聖書のみ」、「信仰のみ」については良いにしても、ほとんどの教会は、「万人祭司」と言いながらも、牧師中心主義です。すべての権限が牧師にあり、信徒は意見をいうことができても、牧師に逆らうことはできないのが現状です。牧師は、説教壇を占拠しており、信徒が講壇に立つことはほとんどありません。神の前では、牧師も信徒も対等な人間であるのに。
     ですから、牧師が代われば、牧師と合わない信徒は教会にこなくなるとか、信徒が強い教会では気に入らない牧師を追い出すとか、さまざまなトラブルを体験し、また見聞きしていました。わたしたちは、そのような教会にはしたくないと思っています。それには、信徒と牧師の役割を自覚して行動することが必要です。信徒は、すべてのことを牧師に依存することを止め、自覚的に自立することが必要です。そのためには、聖書を深く読み、神学を学び、教会の歴史を学び、自覚的なキリスト者として生きることが求められます。
    2)自立する信徒の教会を目指して
     わたしたちの伝道所では、教会としてのさまざまな決定や教会の運営は、牧師にアドバイスを求めることはあっても、すべて信徒であるわたしたちの討論によって決定しています。それには、牧師がわたしたちの意図をよく理解してくださっているから可能なのでしょう。信徒も、時には礼拝の説教を担当します。つまり、信徒が自立しなければなりません。すべてを牧師に依存し、自分の救いや慰めだけを求める生き方をすべきではないと思います。
     だからといって、わたしたちは牧師を無視しているのではありません。牧師は、聖書の言葉から現代のわたしたちへの神のメッセージを伝える役割を持っており、それを尊重しています。幸いにも、優れた牧師に出会い、聖書のメッセージを神学的な深い洞察から、現代のわたしたちの置かれている状況に即して分かりやすく語ってくださいます。牧師の説教の後に、かなり長い時間を設けて話し合いをする(これは説教批判ではない!)のも、専門職である牧師を通して聖書の信仰を深く学びたいからです。これは、小さな教会であるから出来ることなのかもしれません。
     信徒中心の教会をめざすことから当然出てくることですが、わたしたち信徒が聖餐式(せいさんしき、コミュニオン)を行います。聖餐式は聖礼典ですから、洗礼を受けた者しか聖餐を受けることは出来ないとされてきました。そのようなプロテスタント教会の伝統は、洗礼を受けていない人を差別しているのではないか、イエスがすべての人に福音を語ったように、聖餐はすべての人に与えられた神様の贈りものと受け止めるべきではないか、受洗者に限定するのは間違いではないかと考えました。長い討論と聖書研究の末に、すべての礼拝参加者(受洗していない人も子どもも)が参加できる聖餐式の式文を作成し、実行しています。また、聖礼典は教団から按手を受けた牧師が行うものとされてきましたが、わたしたちは、聖餐式はイエスが教会に委託したものと考えますので、信徒も司式をして式を行っています。
  3. 3.会堂を持たないことなど
    1)なぜ会堂を持たないのか―地域に開かれた教会
     また、わたしたちの教会には、集会所はあっても、それを「会堂」あるいは「礼拝堂」とは呼びません。礼拝堂というと、礼拝を捧げる場所、聖なる場所と捉えがちです。そして、ステンドグラスが美しい大きな礼拝堂を作って礼拝すれば、心が落ち着き、慰められると考え、牧師も信徒もそれにあこがれ、競って立派な礼拝堂を建設します。しかし当たり前のことですが、教会は、建物ではありません。教会はイエス・キリストの福音に従って生きる信徒の共同体(コミュニティー)であり、それにはどんな場所でも良いはずです。そこで、イエスキリストの福音が語られ、福音を信じる信徒が集える場所があればどこでもよいと思います。
     立派な会堂を建てるためには、多額のお金が必要です。その資金源は、信徒の献金です。そのために牧師は、多くの信徒を獲得することが中心課題となり、そのために波風を立てる説教を止めて信徒の慰めだけを語ることになりがちです。信徒は、多額の献金を強いられます。貧しい信徒は、そのために肩身の狭い思いにさせられている現状があります。
     そんな教会のあり方はしたくない、というのがわたしたちの思いです。そんなことに信徒のエネルギーを注ぐよりも、もっと大事なことがあるのではないか。イエスが生きたように、社会的な弱者への奉仕のために、社会的に意味のある事柄のためにお金を使った方が良い。
     もう一つの理由は、礼拝堂であれば、礼拝のためだけの機能しか持たなくなります。日曜日の礼拝しか使えなくなります。せっかくの建物ですから、多目的に使うことのほうが良いと思うからです。わたしたちがいろいろの市民運動にかかわっていることを述べましたが、茨坪集会所は、市民運動グループの会合や町内の子ども会の会合や近所の家の葬儀で親族の集まりにも使われたことがあります。そこで、クリスチャンでない人々にも違和感なく利用していただけるように、集会所には十字架も掲げていません。心の中の十字架だけで十分であると思っています。このように、一般の市民や地域の人たちに開かれた教会(コミュニティー)であることを目指しています。
    2)自由献金を守る理由
      献金の話が出ましたが、わたしたちの教会では、礼拝のときに献金を強制しません。月定献金(信徒が毎月決められた金額を捧げること)もありません。伝道所の活動資金は、すべて自由献金(各自が自分の意思とふところ具合をみて自由に)でまかなっています。創立時から使用している献金箱には、「自由な心で、すすんでささげましよう!」と書いてあり、それが机の上に置かれているだけです。不思議なことに、これまでにそれで不足したことは一度もありませんでした。神さまは、必要なものは与えてくださるのです。
     わたしたちに関わりのある社会的弱者のための施設や趣旨に賛同する団体、あるいは災害救助のために、毎年献金を捧げています。そのような対外献金をできるだけ増やしていきたいと願っています。また、わたしたちの仲間が経済的に危急なときには、そのための特別献金を集めたこともあります。教会は、精神的な共同体であるばかりでなく、生活共同体でもあるのではないかと考えるからです。

以上のように、わたしたちの伝道所は、普通の教会とは大分違う歩みをしてきました。それは米田さんが言うように、「実験」なのでしょう。でもわたしたちは、こんな教会があっても良いのではないかと思って始めて、四半世紀が経ちました。こんなに長く続いたのは、不思議な神さまの導きであると思わざるを得ません。この「実験」は成功したのでしょうか。その答えは、神様に聞いてください。

(文責 森山 昭雄)
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